冷戦の展開と第三世界の台頭について【現代史第2回】

こんにちは。今回は冷戦の展開と第三世界の台頭についてお話をします。

 

前回冷戦の話があったけどどうかわっていくのかしら。
Y子さん
Y子さん

 

日本が第二次世界大戦の痛手から復興しつつあるころ、世界では冷戦の”雪解け”が進んでいました。

 

しかし、1950年代後半から再び冷戦が激化し、”再緊張”の時代を迎えます。東西両陣営に属さない「第三世界」の国々は結束して東西両陣営から独立したポジションを維持しようとしました。

 

今回は、冷戦の雪解けと再緊張、第三世界の台頭などについてわかりやすく解説します。

  • スターリンの死後、政権を握ったフルシチョフによって平和共存路線がすすめられた
  • 米・英・仏・ソの四国首脳はジュネーヴ四巨頭会談を実施
  • ハンガリーやポーランドでの反ソ運動にソ連が介入
  • ハンガリー動乱ではナジ=イムレが逮捕、処刑された
  • 周恩来とネルーは平和五原則を発表
  • アジア=アフリカ会議で平和十原則を発表
  • アジア=アフリカ会議に周恩来、ナセル、スカルノ、エンクルマなどが参加
  • ベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議が開催
  • 中印国境紛争で非同盟諸国の結束が乱れた
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冷戦の”雪解け”

(フルシチョフ:wikiより)

1950年、朝鮮戦争が勃発し東西両陣営が朝鮮半島を戦場として激しく戦いました。1953年、朝鮮戦争は休戦となります。同じ年、東側のリーダーであるスターリンが死去。新指導部より政策が転換されました。

       (冷戦地図

1955年、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の首脳がスイスのジュネーヴに集まり会談します。この会議をジュネーヴ四巨頭会談といいました。会議で具体的な成果を上げることは出来ませんでしたが、東西両陣営の対話を継続することで一致します。

 

1956年、ソ連のフルシチョフ平和共存路線を打ち出します。同時に、スターリン批判を展開しました。フルシチョフによる方針転換は東側諸国に大きな影響を与えます。

 

S先生
S先生
この当時、共産主義国ではかなりの衝撃でした。敵と手を結ぼうとするフルシチョフの姿勢は中国との乖離の切っ掛けになります。

 

社会主義圏の勢力拡大を優先し、西側諸国との衝突も辞さなかったスターリン時代とは多く異なるフルシチョフの平和共存路線により、東西両陣営の対立が緩和しました。このことを、冷戦の”雪解け”と称します。

東西両陣営の”再緊張”

(大西洋会談:wikiより)

雪解けによる東西融和ムードに冷や水を浴びせたのが1956年のハンガリー動乱です。スターリン批判後、ハンガリーではスターリン派の首相が退陣しナジ=イムレが首相の座に就きました。

ナジ=イムレは、ワルシャワ条約機構からの脱退やハンガリーの中立化を宣言します。ハンガリーの急進的な動きに対し、ソ連は戦車部隊を中心とするワルシャワ条約機構軍を派遣します。ナジ=イムレを拘束し、ハンガリーの政権を交代させました。

 

ポーランドで起きた動乱についてもソ連が介入し、沈静化させます。さらに、ソ連はICBM(大陸間弾道弾)を開発し西側諸国に軍事的圧力をかけました。

 

1962年、カストロによる革命政権が成立していたキューバに対し、ソ連がミサイル基地を建設していることが判明しました。アメリカは海上封鎖を実施し、ソ連と対決する姿勢を示します。

 

両国の関係は急激に悪化し、核戦争寸前まで行きました。この事件をキューバ危機といいます。1961年のベルリンの壁建設とともに、平和共存路線を壊しかねない事件でしたが、米ソ両国は自制し、破局を回避します。

第三世界の台頭

(キューバ危機当時の国連安保理:wikiより)

1954年、中華人民共和国の周恩来首相とインド首相ネルーが会談。平和五原則を発表しました。平和五原則の内容は領土保全及び主権の相互不干渉・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和的共存です。

 

1955年、インドネシアのバンドンアジア=アフリカ会議が開かれました。会議には中国の周恩来、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセル、アフリカ(ガーナ)のエンクルマなどそうそうたるメンバーが集います。

(スカルノ)

(ナセル大統領)

アジア=アフリカ会議は共同声明として平和十原則を発表しました。平和五原則を発展させた内容で、国連憲章の尊重、植民地主義反対、経済建設の推進、生活水準の向上などがもりこまれます。

 

アジア=アフリカ会議が成功したことで、西側でもない、東側でもない発展途上国の存在感をアピールすることが出来ました。これらの国々は第三世界と呼ばれるようになります。

 

1956年、インドのネルー首相、エジプトのナセル大統領、ユーゴスラヴィアのティトー大統領が会談し、米ソ両陣営に組しない非同盟諸国の会議を開始することで合意しました。

(ネルーとガンディー)

1961年、ユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで第一回非同盟諸国首脳会議が開催されます。これにより、第三世界諸国の結集を目指しました。

 

しかし、1962年に中印国境紛争が発生すると非同盟主義の中心的存在だったネルーが米ソに軍事支援を要請してしまったため、非同盟諸国の結束は崩れてしまいます。

 

まとめ

 

1950年代前半、スターリンの死などをきっかけに東西両陣営が融和したことにより、冷戦の雪解けがすすみました。

 

1950年代後半になると、ソ連が東欧諸国への露骨な軍事介入を実施。さらに、ベルリンの壁建設やキューバ危機により東西両陣営の緊張がたかまりました。

 

同じころ、中国とインドは平和五原則を発表。1955年にはアジア=アフリカ会議が開かれ米ソ両陣営にも属さない第三世界の存在感が強まりました。しかし、非同盟主義諸国による結束は、中印国境紛争によって崩れ去ってしまいます。

 

前回の冷戦については「大戦後の国際平和機構の構築と冷戦の始まりについて(ドイツ分裂も)【現代史】」を見てください。

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