こんにちは。今回から受験生に役立つ現代史シリーズをはじめます。第五回は戦後の南・東南アジア諸国。19世紀からヨーロッパ諸国の植民地とされてきた南アジアや東南アジアは、第二次世界大戦後に一気に独立を果たすなど、東南アジア史は大きな転換点を迎えました。
その一方、スカルノ・スハルト政権、マルコス政権などのような開発独裁を行う政府も生まれます。アメリカは反共の防壁として開発独裁を行う国や南ベトナム政府を支援する東南アジア政策を実施しました。
- 英領インドはインド、パキスタン、セイロン(スリランカ)に分離し独立
- カシミール地方をめぐって印パ戦争が起きた
- 東パキスタンは第三次印パ戦争でバングラデシュとして独立
- インドネシアはオランダから独立。指導者はスカルノ
- スカルノは九・三〇事件で失脚。スハルトが政権掌握
- マラヤ連邦はマレーシア連邦となるが、シンガポールは分離独立
- ビルマは社会主義化。のち軍部クーデタ。アウン=サン=スーチーを長期間軟禁
- フィリピンではマルコスによる開発独裁。マルコス政権崩壊後、アキノ政権成立
- アメリカ軍は1965年に北爆を実施し、本格的にベトナム戦争に参戦
- 1973年、ベトナム和平協定によりアメリカはベトナムから撤退
- カンボジア内戦は1991年まで続き、国連の仲介により終結
戦後の南アジア
(第二次印パ戦争:wikiより)
第二次世界大戦後、イギリス領インドは二つの国に分かれて独立しました。一つはヒンドゥー教徒中心のインド連邦、もう一つはイスラム教徒が中心のパキスタンです。パキスタンは東パキスタンと西パキスタンによって構成されました。
(インド地図:wikiより)
インドとパキスタンが独立した時、インド北西部のカシミール地方の帰属をめぐってインドとパキスタンが対立。第一次印パ戦争がはじまりました。カシミール地方をめぐる紛争は1965年にも発生。こちらは第二次印パ戦争といいます。くわしくは「二次世界大戦後のインド(パキスタンとバングラディシュについて)【世界史B】」を読んでください
第二次世界大戦前にインドの独立運動を主導したガンディーは1948年に暗殺されてしまいました。ガンディーにかわってインドの指導者となったのがネルーでした。ネルーは平和五原則や平和十原則の発表にかかわり、非同盟主義を発展させます。
しかし、ネルーの非同盟主義は中印国境紛争によって挫折してしまいました。それでも、1961年の第一回非同盟諸国会議で、ネルーは主導的な役割を果たしました。
1966年、ネルーの娘であるインディラ=ガンディーが首相の座につきます。1971年、東パキスタンが西パキスタンから独立する動きを見せました。
(インディラ・ガンディー)
インドは東パキスタンを支援します。これが、第三次印パ戦争です。戦争の結果、東パキスタンはバングラデシュとして独立しました。
また、インド南西部にあるセイロン島は1948年に独立します。セイロンの主要民族は仏教徒のシンハリ人ですね。1972年、セイロンはスリランカと改名しました。
戦後の東南アジア諸国
(スカルノ:wikiより)
第二次世界大戦前、独立国であるタイを除き、東南アジアは欧米諸国の植民地でした。太平洋戦争中は日本によって占領されます。日本が戦争に敗北すると、欧米諸国の植民地支配が復活しました。
しかし、東南アジアの人々は欧米からの独立を望み、各国で独立戦争が起きます。インドネシア国民党を率いるスカルノは、1945年にインドネシア独立を宣言します。
インドネシアを植民地としていたオランダは、スカルノの独立宣言を認めません。1945年から1947年にかけてのインドネシア独立戦争で、オランダは植民地支配の継続を断念。1947年にインドネシアの独立が確定します。
スカルノはバンドン会議ではホスト国として存在感を示しました。しかし、1965年に起きた九・三〇事件でスカルノは失脚。軍の力を背景にしたスハルトがインドネシアの実権を握ります。
イギリスの植民地だったマレー半島は、1957年にマラヤ連邦を結成します。1963年にはシンガポールやボルネオも含むマレーシア連邦が結成されました。しかし、中国系が多いシンガポールは1965年に分離独立します。
同じくイギリスの植民地だったビルマは1948年に独立。1962年に社会主義化しました。1988年、軍部がクーデタを起こして権力を掌握。建国の父であるアウン=サン将軍の娘のアウン=サン=スーチーを軟禁し、国際社会の批判を浴びました。
1989年にビルマはミャンマーと改称しますが、軍事独裁政権が続きます。その後も、断続的に民主化運動は継続。2010年にアウン=サン=スーチーは軟禁を解かれました。
フィリピンは1946年にアメリカから独立。1965年以降はマルコスによる開発独裁が続きました。1986年、マルコス政権が崩壊しアキノ政権が誕生します。
(マルコス大統領)
ベトナム戦争とカンボジア内戦
(カンボジア内戦の犠牲者:wikiより)
ベトナムでは第二次世界大戦中からホー=チ=ミンによる独立運動が行われていました。1945年、日本がベトナムから撤退するとベトナム民主共和国の独立を宣言します。しかし、宗主国のフランスはベトナムの独立を認めません。
1946年からフランスとの間でインドシナ戦争が起きました。フランスは1949年に阮朝の生き残りであるバオ=ダイを元首とするベトナム国を発足させます。しかし、インドシナ戦争でフランスは敗北。ジュネーヴ協定でベトナムから撤退しました。
1955年、北緯17度以北に社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)、以南に資本主義のベトナム共和国(南ベトナム)が成立しました。ベトナム共和国の大統領にはゴ=ディン=ディエムが就任します。
1960年、ベトナム共和国内で南ベトナム解放戦線(ベトコン)が結成されました。ベトコンは南ベトナム政府を大きく揺さぶります。1963年、ゴ=ディン=ディエム政権が崩壊した後も、アメリカは傀儡政権をつくって南ベトナムを存続させました。
1964年、アメリカの駆逐艦がベトナムに攻撃されたとして、1965年に報復の北爆を実行。本格的にベトナムに介入します。これにより、ベトナム戦争がはじまりました。
アメリカは大軍を投入し、ベトコンや北ベトナムを駆逐しようとしますが失敗。国内の反戦運動などもあり、次第に戦意を失っていきました。
1973年、アメリカのニクソン大統領はベトナム和平協定に調印しベトナムから撤退します。アメリカ軍の後ろ盾を失った南ベトナムは1975年に降伏。ベトナムはベトナム民主共和国の手によって統一されました。
1970年、隣国のカンボジアでは、反米的なシハヌーク国王に対しロン=ノル将軍がクーデタを決行しました。アメリカ軍もカンボジアに侵攻したため、カンボジアは内戦状態となります。
以後、ロン=ノル派とシハヌーク派、社会主義者であるポル=ポトが率いるクメールルージュの3派が入り乱れて争うカンボジア内戦が激化しました。カンボジア内戦はベトナムの侵攻などもあり混迷を極めます。
(カンボジア:wikiより)
1991年、パリでカンボジア和平協定が結ばれ、内戦が終結しました。1992年には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による統治が始まり、翌年にシハヌークを国王とする新国家が成立しました。
まとめ
19世紀から欧米列強の植民地として支配されていた南アジアや東南アジアは、第二次世界大戦後に独立を果たします。
マレーシアのように比較的平和に独立した国もあれば、インドネシアやベトナム、のように戦火を伴う独立運動もありました。
1965年に始まったベトナム戦争は超大国アメリカにとって初めての大きな挫折となります。ベトナム戦争によりアメリカ経済は大きな痛手を負いました。
また、ベトナム戦争の余波は隣国のカンボジアにも押し寄せ、カンボジア内戦を引き起こす原因となります。
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