みなさん、こんにちは。今回も【世界史B】受験に役立つオリエント史シリーズをはじめます。今回は、イル=ハン国から始まりティムール朝とサファヴィー朝についてです。イスラム教国家の変遷については「【世界史B】受験に役立つオリエント史 (イスラーム諸王朝の変化)」を読んでください。
今回はモンゴル帝国のユーラシア大陸制覇から100年以上が経過した14世紀後半の話です。西チャガタイ=ハン国現れたティムールが西アジアから中央アジアにかけて広がるティムール朝という大帝国を築きます。
そして、ティムール朝の滅亡後にイランに成立したサファヴィー朝はシーア派の大国として西のオスマン帝国、東のムガル帝国と肩を並べる国に成長しました。
前回は、イスラム社会について詳しく述べました。しっかりと復習をしておいてください。「【世界史B】受験に役立つオリエント史(イスラームの社会・経済・文化)」
今回の記事のポイント・フラグは西アジアにイル=ハン国を建国
・ティムールはアンカラの戦いでバヤジット1世を撃破
・サファヴィー朝の最盛期はアッバース1世の時代
モンゴルによるユーラシア大陸支配
(1258年のフレグ西方遠征軍によるバグダード包囲)
13世紀初め、モンゴルを統一したチンギス=ハンは中央アジアから西アジアにかけて勢力を拡大します。イスラームの大国であるホラズム朝を滅ぼしました。ホラズム王朝については「【世界史B】受験に役立つオリエント史 (イスラーム諸王朝の変化)」をみましょう。そして、チンギスの死後も彼の子孫たちが西へと勢力を拡大します。
特に、フビライの弟でチンギスの孫にあたるフラグはアッバース朝を滅ぼし、西アジアにイル=ハン国を打ち立てます。アッバース朝については「受験に役立つオリエント史【イスラーム帝国の成立】第六回」を読んでください。エジプト制服の野望こそ、マムルーク朝によって絶たれますが、イル=ハン国は西アジアの大国として君臨します。
ロシアを支配したのがオゴタイ=ハンの時代に西方遠征軍を率いたバトゥでした。バトゥはロシアにキプチャク=ハン国を建国します。
また、オゴタイの弟でチンギスの子にあたるチャガタイは中央アジアを領土として与えられ、彼の子孫たちはチャガタイ=ハン国の君主となります。
王朝について簡単に表にまとめました。なお、この三つの国を三ハン国(オゴタイ=ハン国も入れると4だが、オゴタイ=ハン国は実態がなかったものとして省かれます。)といい、後にイスラム化が進みました。
王朝名 | 建国者 | 場所 |
フラグ | イル=ハン国 | 西アジア |
バトゥ | キプチャク=ハン国 | ロシア |
チャガタイ | チャガタイ=ハン国 | 中央アジア |
なお、チンギス=ハンの家系図としては以下を参考にしてください。(出典は世界史の窓より)
ティムール朝
(ティムールとバヤジット1世:wikiより)
14世紀前半、チャガタイ=ハン国は東西に分裂します。1370年、西チャガタイ=ハン国に属していたティムールが自立を宣言します。サマルカンドを都とするティムール朝が成立します。
ティムールは西チャガタイ=ハン国やイル=ハン国を併合します。さらに、キプチャク=ハン国も攻撃して領土を奪います。そして、西北インドのトゥグルク朝も攻撃しました。
ティムールは軍を西へと向けます。新興のオスマン帝国と戦うためです。1402年、ティムールはアンカラの戦いでオスマン帝国のバヤジット1世を撃破します。イスラーム世界で最強の武力を誇示します。その後、明を攻撃しようと遠征している最中にティムールは病死しました。
以下、この当時の地図です。しっかりと頭に入れておきましょう!!
15世紀前半にティムール朝の王となったウルグ=ベクはサマルカンドに天文台を建設するなど学問を奨励しました。しかし、ウルグ=ベクが暗殺されたのち、ティムール朝は衰退し始めます。1507年、ティムール朝はウズベク族の侵入により滅亡しました。ちなみに、ウズベグ族の人々の国が今のウズベキスタンですね。
サファヴィー朝
(イスファハーン 金曜モスク:wikiより)
ティムール朝の滅亡寸前にあたる1501年、イスマーイール1世はタブリーズを都とするサファヴィー朝ペルシアを建国します。サファヴィー朝はウズベク族を倒し、西アジアの支配権を握りました。ちなみにペルシアがササン朝以来まともに政権をとった国ですね。
サファヴィー朝では王の称号としてシャーという制度を採用します。
[L1_wsbStart][L_wsbAvatar]https://wearewhatwerepeatedlydo.com/wp-content/uploads/2019/10/teacher.png[L_wsbName]S先生[L_wsbText]カリフでないのに注意!!シャーは王という意味ですね。[L_wsbEnd]
また宗派として、シーア派、特に十二イマームを国教として採用しました。シーア派のイスラム教国なので注意です。シーア派のイスラム教国は「【世界史B】受験に役立つオリエント史 (イスラーム諸王朝の変化)」を読んでください。そして、建国間もない1514年、サファヴィー朝はオスマン帝国にチャルディラーンの戦いで敗北し、一時的に衰退します。
16世紀末、サファヴィー朝のシャーとなったアッバース1世は都をタブリーズからイスファハーンに移します。アッバース1世は中央集権体制を確立し、オスマン帝国と再戦します。かつて奪われた領土の一部を取り返します。
また、アッバース1世はポルトガルが根拠地としていたペルシア湾のホルムズ島を占領しポルトガル人を追放しました。新都イスファハーンは大いに繁栄し、「世界の半分」とまで謳われます。
17世紀後半には、インドのムガル帝国、東地中海のオスマン帝国、西アジアのサファヴィー朝ペルシアとイスラーム3帝国の一つに数え上げられました。
ティムール朝とサファヴィー朝のまとめ
モンゴル帝国崩壊後、西アジアで勢力を拡大したのがティムールでした。ティムールはチンギス=ハンの再来ともいえるほどの勢いで大帝国を作ります。しかし、ティムール帝国は15世紀に衰退し、16世紀初頭の滅亡しました。
かわって西アジアにできたのがシーア派のサファヴィー朝です。最盛期はアッバース1世ですが、アッバース朝のカリフではないので注意が必要ですね。
次回は「オスマン帝国の拡大」についてお話をします。しっかりと理解していきましょう。
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