みなさん、こんにちは。今回も【世界史B】受験に役立つオリエント史シリーズをはじめます。今回はイスラーム諸王朝の変化についてです。前回のイスラムの成立「【世界史B】受験に役立つオリエント史(イスラーム帝国の成立)第六回」から、今回はアジア全域にイスラム教が広がる過程を話します。
具体的には今回はイラン系イスラム王朝のアッバース朝、ブワイフ朝、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝、マムルーク朝、そしてモンゴル人のイスラム王朝イル=ハン国が出てきます。
時代は、前回のアッバース朝の弱体化してきたところからお話します。
今回の記事のポイント・9世紀にイラン系のサーマーン朝がアッバース朝から独立した
・10世紀はシーア派のブワイフ朝とファーティマ朝が勢力を拡大
・11世紀はセルジューク朝による支配
・12世紀はサラディンが起こしたアイユーブ朝に注目
・13世紀はモンゴル系のイル=ハン国とエジプトのマムルーク朝が大事
アッバース朝の分裂
(ブハラ:wikiより)
アッバース朝が衰退すると、カスピ海東方のマーワラーアンナフルでイラン系の人々がアッバース朝から自立します。サーマーン朝を開きました。サーマーン朝の都であるブハラは神学や法学の都として栄えます。
イベリア半島では後ウマイヤ朝がコルドバを都として栄えていました。コルドバは西方イスラーム世界の一大中心地となります。
その頃、アッバース朝では黒人奴隷の反乱であるザンジュの乱が起きました。これによりアッバース朝の力は急速に弱体化します。
カリフ時代とブワイフ朝の台頭
(アズハル学院:wikiより)
10世紀の初め、チュニジアに起こったシーア派のファーティマ朝は、910年にカリフを自称します。969年にエジプトを征服しカイロを建設します。972年にはカイロにアズハル学院を設立してシーア派の神学研究を盛んに行います。
ちなみに、シーア派の王朝として以下のものがあります。意外と数が少ないので覚えておきましょう。特にファーティマ、ブワイフ、サファヴィー、カージャールは必須です。
- アリー朝(最初のシーア派王朝で、現在のイランのカスピ海沿岸部の王朝)
- ファーティマ朝(2番目のシーア派王朝でチェニジアに起こり、後にエジプトに本拠地を移します)
- ブワイフ朝(現在のイラン地域を支配)
- サファヴィー朝(イラン地域を支配)
- ガージャール朝(サファヴィー朝の後を受け継ぐ王朝)
- パフラヴィー朝(イラン最後の王朝)
ファーティマ朝のエジプト制服の前にあたる929年、後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世は北方のキリスト教国家を圧迫します。
自らカリフを称しました。カリフとは、ムスリムの指導者のことでしたね。これにより、アッバース朝、ファーティマ朝、後ウマイヤ朝がカリフを称する3カリフ時代となります。
10世紀前半、シーア派を信じるブワイフ朝がイランで成立します。ブワイフ朝はアッバース朝の弱体化に乗じてバクダードに入城しました。アッバース朝のカリフはブワイフ朝の首長に大アミールの称号を与えます。
[L1_wsbStart][L_wsbAvatar]https://wearewhatwerepeatedlydo.com/wp-content/uploads/2019/10/teacher.png[L_wsbName]S先生[L_wsbText]大アミールとは、軍事的な統治者のことで、これ以降アッバース朝は宗教的象徴となったわけですね。[L_wsbEnd]
ブワイフ朝はシーア派でありながら、スンナ派のアッバース朝のカリフを滅ぼさずカリフにかわって政治を行いました。
ブワイフ朝時代に始められた制度がイクター制です。イクター制とは、大アミールが軍人たちに一定地域の徴税権を与え、その見返りに軍役を課すという仕組みでした。土地そのものを与えたわけではないので、正誤問題では注意しましょう。
ベルベル人とトルコ人の台頭
(暗殺されるニザームアルムルク:wikiより)
11世紀になると後ウマイヤ朝は滅亡します。アラゴン・カステーリャ王国によるレコンキスタ(国土回復運動)によって圧迫されます。かわって北アフリカに本拠地を持つベルベル人のムラービト朝がイベリア半島南部を支配しました。
11世紀に最も活躍したのはトルコ人です。トルコ人は奴隷軍人であるマムルークとしてイスラーム世界に入り込んでいました。11世紀になると、トルコ人の一派であるセルジューク=トルコが西へと進軍し、ブワイフ朝を滅ぼします。セルジューク朝の誕生です。
バグダードに入城したセルジューク朝のリーダーであるトゥグリル=ベクは、アッバース朝のカリフからスルタンに任じられます。スルタンとはアラビア語で「権威」「皇帝」とも訳される言葉です。カリフは宗教的な権威を持つのみで、実際の支配権はセルジューク朝のスルタンが握りました。
大アミールとスルタンの違いが分かりません。。。。
難しいところですが、大アミールは地方の領主的な立場で、スルタンはイスラム世界の世俗的指導者と言われています。イメージですがスルタン>大アミールみたいな感じです。ただ、時代や場所によっては同一視されることもあります。
セルジューク朝はビザンツ帝国の領土だった小アジアに進出していきます。徐々に小アジアをトルコ化していきました。これに危機感を覚えたビザンツ帝国はローマ教皇に援軍を要請します。十字軍派遣のきっかけとなります。
セルジューク朝の最盛期は11世紀の末です。マリク=シャーのもとで全盛期を迎えます。彼の宰相ニザーム=アルムルクはイクター制を整備し、国内の統治システムを整えます。と同時に、ニザーミーヤ学院を建設し学問を奨励しました。
十字軍との戦い
(サラディン:wikiより)
11世紀の末から12世紀にかけて、ローマ教皇が主導した十字軍が地中海東部に侵攻します。十字軍成立の経緯は「【世界史B】受験生に役立つヨーロッパの歴史(ローマ教会の歴史:絶頂衰退編)【中世編第七回】」をお読みください。
十字軍の目的は聖地イェルサレムの奪還です。十字軍を率いた騎士たちはイェルサレム王国などの十字軍国家を地中海東部に建国します。
12世紀後半、ファーティマ朝の宰相になったサラーフ=アッディーン(サラディン)は、エジプトの実権を握ると1169年にアイユーブ朝を起こしました。
サラディンにとって最大の敵は地中海沿岸の十字軍国家と、それを支援する西欧の十字軍です。1187年、サラディンはイェルサレム王国の軍を打ち破り、聖地イェルサレムを奪還しました。
ちなみに、サラディンについて、佐藤 次高 「イスラームの「英雄」 サラディン――十字軍と戦った男 (講談社学術文庫)」の本がおすすめです。記載がかなり詳しく客観的な記載が多いです。例えば、サラディンが風呂に入ってる時、風呂の水が熱かったので水を持ってこさせようとしたが水をこぼしサラディンに水がかかり散々な目にあったが、咎めることがなかった、というエピソードとか人間味があって面白いです。
対して、ヨーロッパ側では、聖地奪還を目指して第三回十字軍が編成されます。この時、サラディンの好敵手となったのがイギリス国王リチャード1世でした。
獅子心王(ライオンハート)と渾名されるほどの勇猛な王だったみたいですね。
リチャードは勇猛な戦いぶりでサラディン相手に一歩も引きません。しかし、聖地イェルサレムを奪還することはできませんでした。
イベリア半島ではレコンキスタが進展します。レコンキスタとは、複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称です。これにより、北アフリカからイベリア半島南部を支配していたムワッヒド朝の勢力は圧迫されました。
モンゴル人の侵入とイスラーム化
(マムルーク:wikiより)
13世紀になるとセルジューク朝の勢力は著しく衰退します。一時はイランを支配したホラズムが勢力を拡大しますが、チンギス=ハンの軍勢によって壊滅的打撃を受け、滅亡しました。ちなみに、ホラズム王朝はセルジュークトルコから12世紀ごろに独立した国です。
チンギス=ハンの死後、モンゴル人は領土を世界各地に拡大します。西アジア地域にはフラグ率いるモンゴル軍が侵入します。フラグはチンギス=ハンの孫にあたります。フラグ軍はバグダードを占領しアッバース朝のカリフを殺害しました。これにより、アッバース朝が滅亡します。
フラグの部下はエジプトへの侵入をはかりました。しかし、アイユーブ朝をクーデタで滅ぼしたマムルーク朝は、モンゴル軍のエジプト侵入を阻止します。また、マムルーク朝はキリスト教勢力を地中海東岸から排除することにも成功しました。
エジプトは征服できなかったものの、フラグはイラン高原にイル=ハン国を立てます。イル=ハン国は13世紀末のガザン=ハンの時代にイスラーム化しました。ガザン=ハンの宰相であるラシード=ウッディーンはガザン=ハンの命令により歴史書『集史』をまとめます。
まとめ
アッバース朝の滅亡後、イスラーム世界は分裂しました。しかし、各地にできた地方政権は分裂しつつも領土を拡大します。
ブワイフ朝やファーティマ朝といったシーア派の国々はよく出題されるので場所と名前を一致させましょう。国名・時代・地域を完全一致させるまで、しっかりと地図を見比べて頭を整理すると高得点が期待できますよ。今回はここまでです。お疲れ様でした。
より詳しく知りたい方は「詳説世界史研究」がおすすめ。読み物としてかなり詳しく歴史を勉強できます。
次回の記事はイスラムの文化について「イスラームの社会・経済・文化」について語ります。
前回の記事「【世界史B】受験に役立つオリエント史(イスラーム帝国の成立)第六回」
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