こんにちは。今回も【世界史B】受験に役立つオリエント史シリーズをはじめます。今回はムハンマドが開いたイスラーム教の成立の過程とムハンマドの子孫が納めた正統カリフ時代、及びその後のウマイヤ朝とアッバース朝まで話をします。
6世紀後半、アラビア半島でムハンマドがイスラム教を開きますが、彼の死後ムハンマドの子孫が納める正統カリフ時代を経てイスラム教の派閥が起こります。そして、コーランのみ信奉するスンナ派の王朝ウマイヤ朝とアッバース朝が勢力を広げていきます。
もともとビザンツ帝国とササン朝の二大勢力が支配してきた中東に大きな変化をもたらしたのがこのイスラーム教徒の帝国の急拡大です。イスラーム勢力はアラビア半島からイラン、エジプト、北アフリカ、イベリア半島へと大きく拡大しました。
今回の記事・ビザンツ帝国とササン朝の争いで紅海沿岸の都市が繁栄
・ムハンマドがイスラーム教を開くがメッカで受け入れられずメディナに脱出
・ムハンマドはメッカを征服しアラビア半島を統一
・正統カリフ時代にササン朝を滅ぼした
・ウマイヤ朝は西ゴート王国を滅ぼすが、トゥール=ポワティエ間の戦いで敗北
・アッバース朝はタラスの戦いで唐王朝に勝利
6世紀後半の西アジア
(キャラバン:wikiより)
イスラーム教が成立する以前、中東地域ではビザンツ帝国とササン朝の二大勢力が争っていました。両国ともシルクロードの中継貿易で繁栄します。しかし、戦争が長引くにつれシルクロードはルート変更せざるを得なくなりました。
戦争に巻き込まれやすい内陸のルートよりも、アラビア半島を経由する新たなルートが交易路として活性化しました。特に、紅海沿岸のメディナやメッカは宗教や商業の中心として栄えます。
その一方で、紅海沿岸のアラブ人たちの間で貧富の差が拡大しました。交易が盛んになるにつれ、ユダヤ教やキリスト教が流入。アラブ人社会では宗教や社会を改革する必要性が生まれつつありました。
イスラーム教の成立とヒジュラ(聖遷)
(預言者のモスク:wikiより)
570年頃、ムハンマドはメッカの大商人の家に生まれます。ムハンマドは25歳のころに40歳の未亡人ハディージャと結婚しました。40歳のころ、ムハンマドは神の啓示を受けたとしてイスラーム教の布教を開始しました。
イスラーム教では唯一絶対の神であるアッラーを信仰します。ムハンマドは神の言葉を預かった「預言者」とされました。イスラーム教徒が信じるべき6つのことを六信、イスラーム教徒が行うべき5つのことは五行といいます。
六信五行はイスラム教の教えです。仏教と間違える人がいるので注意!
ムハンマドが神の言葉として語った内容をまとめたものをコーラン(クルアーン)といいました。アラビア語で書かれたイスラーム教の根本経典です。和訳として「クルアーン:やさしい和訳」があります。よければ一読してみてください。
ムハンマドがイスラーム教を布教し始めた時、メッカの大商人たちは古来の多神教を信じていたためムハンマドを迫害します。そのため、622年、ムハンマドはメディナに移住しました。これをヒジュラといい、イスラーム暦元年とされます。
ムハンマドによる征服活動
(カーバ神殿:wikiより)
メッカを追われたムハンマドとともにメディナに移り住んだ人々は信者の共同体であるウンマを組織します。ムハンマドらはメディナでイスラーム教を熱心に布教し多数の信者を獲得しました。
メディナで勢力を拡大したムハンマドはメッカにいる保守派と戦いを始めます。624年のバドルの戦いでメッカの商人の隊商を攻撃したムハンマドに対し、メッカ側も反撃します。
627年、メッカ軍は7,500の兵をひきいてメディナを攻撃しますがムハンマドらムスリムの抵抗により失敗に終わります。逆に630年1月、ムハンマドはメッカに向けて進撃します。戦意を失ったメッカの保守派はムハンマドに降伏しました。
ムハンマドはメッカにあったカーバ神殿の偶像をすべて破壊します。メッカの街とカーバ神殿をイスラーム教の聖地と位置づけます。ムハンマドに率いられたアラブ人たちは瞬く間にアラビア半島を制圧していきました。
正統カリフ時代
(ラクダ騎兵:wikiより)
632年、ムハンマドが死去するとウンマ(共同体)の指導者としてアブー=バクルが選出されました。アブー=バクル以後、ムスリムを率いる最高指導者をカリフといいます。初代カリフのアブー=バクルから2代ウマル、3代ウスマーン、4代アリーまでを正統カリフといいました。
正統カリフ時代、カリフはムハンマドの近親者、あるいは信仰心の厚いものが選挙で選出されます。正統カリフたちは精強なアラブ騎兵に周辺諸国の征服を命じます。
642年、西アジアの大国であるササン朝ペルシアの軍と正統カリフ軍が戦ったニハーヴァンドの戦いでは正統カリフ軍が勝利します。
ササン朝は巻き返すことができず、651年に滅亡しました。詳しくは「受験に役立つオリエント史(アジア史) 第5回【ディアドコイからパルティア、ササン朝ペルシア】」をみてください。
同じころ、正統カリフ軍はビザンツ帝国の領土となっていたエジプトを征服します。アラブ人による周辺諸国への征服活動をジハード(聖戦)といいました。また、アラブ人たちは征服した地域に拠点となるミスル(軍営都市)をつくり支配を安定化させます。
のち、イスラム王朝は世界を席巻しますが、簡単にイスラム王朝の流れを記しました。イメージで理解していきましょう。
(イスラム王朝:世界の歴史マップより)
ウマイヤ朝
(カルバラの戦い:wikiより)
正統カリフ時代、アラブ人たちの領土は急拡大を遂げました。その一方、カリフの座をめぐる争いが起きます。シリア総督のムアーウィヤが第4代カリフのアリーと戦いを始めました。
661年、アリーが何者かによって暗殺されるとムアーウィヤはカリフとなり、カリフの地位を世襲するウマイヤ朝が成立しました。ウマイヤ朝の支配を認める人々をスンナ派といいます。都はアラビア半島からシリアのダマスクスに移されました。
一方、反ムアーウィヤ勢力はアリーとその子孫のみを正統なカリフとしました。アリーやその子孫を支持する人々をシーア派といいます。
ウマイヤ朝の時代、アラブ人の軍人たちは王朝から貨幣を支給されていました。この制度をアター制といいます。アラブ人たちは各地を征服し、支配者となりました。ウマイヤ朝ではアラブ人たちの力が強かったのでアラブ帝国ともいいます。
ウマイヤ朝の領土拡大は7世紀に入っても継続します。711年、ウマイヤ朝軍はイベリア半島にあった西ゴート王国と交戦し、これを滅ぼします。さらにピレネー山脈を越えてフランスに進撃しますが、トゥール=ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰カール=マルテルに進撃を阻止されました。
詳しくは、「受験生に役立つヨーロッパの歴史その10(フランク王国の成立)【世界史B】」を読んでください。
アッバース朝
(ハールーン=アッラシード:wikiより)
ウマイヤ朝が勢力を拡大する一方、支配者であるアラブ人と他の民族との間で溝が広がりました。アラブ人たちはほとんど税を納めませんでしたが、異民族は改宗しても人頭税のジズヤや地租のハラージュをおさめます。
非アラブ人の改宗者(マワーリー)たちはウマイヤ朝の支配に強い不満を持ちました。750年、反ウマイヤ勢力を結集したアブー=アルアッバースはウマイヤ朝を打倒しアッバース朝を創設します。アッバース朝はマワーリーのジズヤ(人頭税)を免除します。征服地に土地を持つアラブ人にはハラージュ(地租)を課します。
戦いに敗れ都のダマスクスを逃れたウマイヤ家の生き残りはイベリア半島に脱出します。そこで、後ウマイヤ朝を建国してアッバース朝から独立しました。
アッバース朝は新首都としてバクダードを建設します。また、建国間もない751年、タラスの戦いで唐王朝の軍を打ち破り、東に進出するきっかけをつかみました。この時、製紙の技術が西方に伝えられます。
ちなみに「天涯の戦旗 タラス河畔の戦い」は東京大学大学院でイスラム研究をされていた小前 亮が書いた作品で、なかなかない切り口の歴史小説で面白いです。
アッバース朝の最盛期は8世紀後半のハールーン=アッラシードの時代です。彼の時代にイスラーム文学が栄えます。9世紀になるとアッバース朝の地方支配者は相次いでアッバース朝から独立する。アッバース朝の力は大きく低下しました。
まとめ
7世紀はイスラームの世紀でした。ムハンマドがイスラーム教を創始して以来、イスラーム勢力は西アジア各地を制圧します。ウマイヤ朝やアッバース朝は広大な帝国を築き上げました。
その一方、イスラーム教はウマイヤ朝を支持するスンナ派とアリーの子孫のみを正統とするシーア派に分裂。その後のイスラームの歴史に大きな影響を及ぼします。
次回は「イスラーム諸王朝の変化」についてです。ごちゃごちゃし始めるので整理して覚えましょう。
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