今回は明治時代の文学・芸術について詳しく解説します。
年代ごとに盛んになった文学や芸術、各分野で活躍した代表的な人物をわかりやすくまとめました。
最後には入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。
この記事からわかること
・明治時代の各年代で盛んになった文学・芸術
美術
(フェノロサ:wikiより)
西洋画では工部美術学校→明治美術会→白馬会、日本画では東京美術学校→日本美術院というのが大まかな流れです。このことを頭に入れたうえで本文を読み進めていってください。
まず1870年代に政府が工部美術学校を設立します。ここでラグーザやキヨソネ、フォンタネージといった外国人教師たちに西洋美術を指導させました。
当時は政府主導で西洋の文化を積極的に取り入れようとしていた時期だったこともあり、美術の世界にも同じように文明開化の流れがやってきたというわけです。
しかし1880年代になると、西洋美術に対抗して日本の伝統美術を育成しようとする動きが盛んになります。フェノロサ・岡倉天心が1887年に設立した東京美術学校はその最たる例といえるでしょう。
1880年代の主な日本画家としては、「悲母観音」で知られる狩野芳崖や、「竜虎図」を描いた橋本雅邦がいます。また橋本雅邦の弟子には、「落葉」などの作品を残した菱田春草がいることも覚えておいてください。
(黒田清輝:wikiより)
対する西洋画は、高橋由一(代表作:「鮭」)が開拓したのち、80年代後半には浅井忠らによって明治美術会が設立されます。
しかし日本画を重んじる動きなどにより、一時衰退を余儀なくされました。当時の西洋画は非常に暗い絵(脂派)が主流で、あまり一般受けしなかったことも衰退した要因の1つです。
しかし1890年に入り、フランス印象派の画風を学んだ黒田清輝が帰国すると、西洋画は再び息を吹き返します。黒田清輝は、白馬会を結成するとともに、外光派と呼ばれる明るい西洋画を確立させました。また東京美術学校に西洋画科が新設されます。
しかしこれに反発した人物がいました。岡倉天心です。日本画を重視していた東京美術学校に西洋画科を設けたことは彼にとって許せないことでした。岡倉天心は東京美術学校を去り、菱田春草とともに日本美術院を設立します。
この時期の代表的な日本画家としては、横山大観・下村観山を覚えておきましょう。
…。
1900年代には、牧野伸顕文部大臣により文部省美術展覧会(文展)が開設されます。文展はのちに、日本美術界の登竜門になりました。
文学
(森鴎外:wikiより)
明治時代における文学の大まかな流れは、戯作文学→政治小説・言文一致運動→ロマン主義・理想主義です。
まず1870年代に、滑稽本・読本の流れをくむ戯作文学が生まれます。滑稽本・読本についてはこちらの記事「化政文化(葛飾北斎など)について解説(入試問題つき)【日本史第59回】」をご覧ください。
戯作文学のテーマは、勧善懲悪です。勧善懲悪とは文字通り、『「善」を「勧」めて「悪」を「懲」らしめる』、つまり「最後には正義が勝ち、悪は負ける」という意味を表します。代表的な作家は、「安愚楽鍋」の仮名垣魯文です。
1880年代になると、自由民権思想の宣伝が目的とした政治小説が生まれます。主な作家には、「経国美談」の矢野竜渓・「佳人之奇遇」の東海散士がいました。
ところが1880年代の後半になると、新たな文学様式として写実主義が登場します。写実主義は、人間の内面や世相をありのままに書くことを目指すもので、坪内逍遙が「小説神髄」にて提唱しました。
写実主義の登場をきっかけに、言文一致運動が起こります。言文一致運動とは、話し言葉を使って小説を書こうとする試みのことです。言文一致体で書かれた小説としては二葉亭四迷の「浮雲」をおさえておきましょう。
また1880年代後半~90年代に登場した硯友社は、写実主義を掲げつつ、小説の大衆化を進めました。中心人物としては、「金色夜叉」の尾崎紅葉がいます。
(樋口一葉:wikiより)
1890年代には、人間の感情や個性を重視するロマン主義が盛んになりました。中心人物だったのが、雑誌「文学界」を創刊した北村透谷です。
代表的な作家には、「たけくらべ」の樋口一葉や「舞姫」の森鴎外、「高野聖」の泉鏡花がいます。
またこの時期には理想主義も誕生しました。理想主義は、現実をありのままではなく理想に即して描写するとともに、美的・倫理的に表現することを目指す考え方です。代表的な作家には、「五重塔」の幸田露伴がいます。
さらに人道主義に立つ社会小説も登場しました。徳冨蘆花の「不如帰」が代表例です。
1900年代には、人間社会の暗い現実をありのままに写し出そうとする自然主義が誕生しました。中心人物には、「破戒」の島崎藤村・「蒲団」の田山花袋・「武蔵野」の国木田独歩がいます。
これに対して反自然主義も生まれ、「吾輩は猫である」の夏目漱石などが登場しました。
芸術
(正岡子規:wikiより)
ここではそのほかの芸術について解説します。
演劇では、歌舞伎のほか、明治期には新派劇・新劇が生まれます。歌舞伎では、河竹黙阿弥が数多くの作品を残しました。
新派劇は、自由民権運動を題材とした壮士芝居が起源の演劇です。中心人物は川上音二郎でした。一方新劇は、西洋の近代劇を翻訳したものです。坪内逍遙が中心の文芸協会や、小山内薫らが中心の自由劇場が生まれました。
音楽では、西洋音楽を模倣した唱歌が伊沢修二らの努力により、小学校教育に採用されます。明治期の代表的な作曲家としては、「荒城の月」の滝廉太郎を覚えておきましょう。
彫刻では、伝統的な彫刻の高村光雲と、西洋的な彫塑の荻原守衛の2人をおさえておいてください。
詩歌では、文学と同様、ロマン主義が登場します。小説では自然主義だった島崎藤村も詩歌ではロマン主義です。ほかにも「みだれ髪」の与謝野晶子や、「一握の砂」の石川啄木がいます。
俳句の分野では、正岡子規が俳句の革新・万葉集和歌の復興に尽力するとともに、俳句雑誌「ホトトギス」の創刊に協力しました。
代表的な門下には、病に伏した正岡子規に代わり、「ホトトギス」を継いだ高浜虚子や短歌雑誌「アララギ」を創刊した伊藤左千夫らがいます。
明治期には「太陽」「中央公論」といった雑誌が登場したほか、1870年には初の日刊新聞として横浜毎日新聞が創刊されました。
建築では、ニコライ堂を設計したイギリス人のコンドルや日本銀行本店を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊を覚えておきましょう。
今回の範囲はここまでです。続いて入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。
入試問題にチャレンジ
下線部ⓓに関連して、明治期の出版や文化について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 『中央公論』に掲載された民撰議院設立建白書は、自由民権運動が広がるきっかけとなった。
② 新聞紙条例にもとづき、横浜毎日新聞が創刊された。
③ 北村透谷は『文学界』の誌上で、人間の感情を重視するロマン主義を説いた。
④ 大衆娯楽雑誌として『キング』が創刊され、多くの読者を獲得した。
まとめ
今回は明治時代の文学・芸術について見てまいりました。
知識をただ無味乾燥に暗記するのではなく、各年代の出来事と関連付けたり流れを意識したりして覚えていくと楽しみながら学習できますよ。
少しずつでもいいので、確実に知識を増やしていってくださいね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「明治時代の思想・宗教についてわかりやすく解説【日本史第72回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「第一次護憲運動についてわかりやすく解説【日本史第74回】」
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