大日本帝国憲法・初期議会についてわかりやすく解説【日本史第66回】

今回は大日本帝国憲法が発布されるまでの過程・藩閥と民党が激しく対立した初期議会の実態について解説します。

 

大日本帝国憲法と日本国憲法の違いについても、表を交えて詳しく説明しました。

 

後半には入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。

この記事からわかること

・大日本帝国憲法が完成するまでのプロセス

・大日本帝国憲法の特徴・日本国憲法との違い

・黒田清隆首相と伊藤博文が掲げた超然主義とは何か

・藩閥と民党が対立した、初期議会の具体的な状況

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大日本帝国憲法制定までの流れ

(憲法発布略図:wikiより)

大日本帝国憲法完成までの道のり

(ロエスレル:wikiより)

1880年代初頭、福沢諭吉系の交詢社が「私擬憲法案」を発表したのをきっかけに、私擬憲法の作成が盛んに行われるようになります。

 

民権派の植木枝盛は、広範な人権保障・権限の強い一院制議会・抵抗権・革命権などを規定した「東洋大日本国国憲按」を作成しました。また立志社では「日本憲法見込案」、農村青年の学習グループでは「五日市憲法草案」が作られたこともあわせて覚えておいてください。

 

1882年には憲法調査を目的に、伊藤博文らをヨーロッパに派遣します。伊藤たちはドイツの憲法理論を学び、翌年帰国しました。続く1884年には華族令を制定し、華族の範囲を拡大します。これによりのちの貴族院の土台ができました。

 

1885年には太政官制を廃止すると同時に、内閣制度を発足させ、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任します。

 

翌1886年末からは、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らがドイツ人顧問ロエスレルの助言を受けて憲法草案を起草しました。1888年からは同年に設置された枢密院で憲法草案の審議が行われ、翌1889年2月11日にようやく大日本帝国憲法が発布されます。憲法の発布と同時に皇室典範衆議院議員選挙法が制定されたこともおさえておきましょう。

 

S先生
S先生
地方制度の改革は、ドイツ人顧問モッセの助言も得ながら、山県有朋を中心に進められ、1888年に市制・町村制、1890年には府県制・郡制が公布されました。

大日本帝国憲法の特徴

(大日本帝国憲法と日本国憲法の比較表:オリジナル)

大日本帝国憲法は、天皇が単独の意思で決定して国民に与える欽定憲法の形式をとり、主権は天皇にありました。

 

また天皇は神聖不可侵の存在でかつ、統治権のすべてを握る総攬者であるとされ、文武官の任免・陸海軍の統帥・宣戦・講和や条約の締結など、議会が関与できない大きな権限(天皇大権)を持ちました。とくに陸海軍の統帥権は、内閣からも独立して天皇に直属していたことを覚えておいてください。

 

また各国務大臣は天皇に対して個別に責任を負いました。議会に対してではないことに注意しましょう。国民の権利としては、所有権の不可侵や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由が法律の範囲内で認められました。

 

S先生
S先生
帝国議会は、貴族院・衆議院の二院制です。衆議院議員選挙法では、選挙人は満25歳以上の男性で直接国税15円以上の納入者に限定されており、有権者は全人口の約1%程度にとどまりました

初期議会

(黒田清隆:wikiより)

憲法を発布した直後、黒田清隆首相と伊藤博文は、超然主義で政治を進めることを宣言します。

 

超然主義とは、政府の政策は政党の意向に左右されてはいけない、つまり藩閥の決めたことは民党が何と言おうと変えないということです。藩閥は薩摩・長州、今でいう与党のことで、民党は立憲自由党・立憲改進党など、板垣退助・大隈重信が関わっている党、今でいう野党のことを意味します。

 

では初期議会とは何なのでしょうか?これは、1890年に開かれた第一議会から1890年の第六議会までを指します。

 

初期議会は、藩閥と民党の対立で混乱に陥った点が特徴です。第1回の選挙で民党が藩閥に圧勝したあとの第一議会で、超然主義の立場をとる第一次山県有朋内閣と、政費節減・民力休養を主張する民党が早速火花を散らします。

 

S先生
S先生
ちなみに民党が唱えた政費節減・民力休養とは、行政費を節約して地租軽減をするべきだというものです。

 

続く第二議会でも、第一次松方正義内閣が民党と対立し、衆議院解散に追い込まれました。第2回の選挙では、藩閥サイドは内務大臣の品川弥二郎を中心に選挙干渉を行い、民党の邪魔をしたものの、再び民党が勝利を収めました。

 

続いて第二次伊藤博文内閣が成立します。民党の一つ、自由党に接近したものの失敗に終わり、もとの対立状態に戻ってしまいました。

 

では藩閥と民党がここまで対立した理由は何なのでしょうか?超然主義ももちろん、理由の一つです。ですがほかの理由としては、軍備を拡張しようとした藩閥に民党が反発したからというのが挙げられます。対立していた背景についてもしっかり把握しておいてくださいね。

 

今回の範囲はここまでです。続いて入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。

入試問題にチャレンジ

下線部ⓒに関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の①~⑥のうちから一つ選べ。

Ⅰ 太政官制が廃され、内閣制度が定められた。

Ⅱ 天皇の最高諮問機関として枢密院が設置された。

Ⅲ 欽定憲法として大日本帝国憲法が発布された。

① ⅠーⅡーⅢ ② ⅠーⅢーⅡ ③ ⅡーⅠーⅢ

④ ⅡーⅢーⅠ ⑤ ⅢーⅠーⅡ ⑥ ⅢーⅡーⅠ

2016年 センター試験 本試験 日本史B  第5問 問4より)

正解:① 太政官制が廃止され、内閣制度が定められたのは1885年です。また枢密院が設置されたのは1888年です。欽定憲法として大日本帝国憲法が発布されたのは1889年2月11日なので、答えはⅠーⅡーⅢの順である①となります。

まとめ

今回は大日本帝国憲法が発布されるまでのプロセス・大日本帝国憲法の特徴・藩閥と民党が激しく火花を散らした初期議会について見てまいりました。

 

大日本帝国憲法がどのような手順を踏んで作られたのかについてはもちろん、超然主義・初期議会の状況に関してもしっかりとマスターしておきましょう。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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