明治時代の教育制度まとめ|学制・教育令・学校令・教育勅語の流れと語呂合わせ【日本史】

明治時代の教育制度は、学制・教育令・学校令・教育勅語・国定教科書と、数十年の間に何度も大きな転換が起きます。それぞれの年号と内容・背景を正確に覚えることが、日本史入試における得点のカギです。この記事では、教育制度の変遷を時系列で整理し、各制度の特徴と覚えるためのポイントを解説します。

明治の教育制度:全体の流れ

明治政府が近代的な教育制度を整備する過程は、大きく「欧米の輸入(模倣)から日本独自の国家主義的教育へ」という方向で進みました。最初はフランス・アメリカの制度を参考にしながら国民皆学を目指しましたが、自由民権運動の高まりや欧化主義への反発を経て、1880年代後半から儒教的・国家主義的な価値観を前面に出した教育体制に転換していきます。

1872年(明治5年):学制の公布

1872年(明治5年)、政府は「学制」を公布しました。フランスの学校制度を参考に作られた学制は、全国を「大学区→中学区→小学区」に区分し、小学区ごとに1校の小学校を設置することを目指したものです。「被仰出書(おおせいだされしょ)」で示された「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」という理念のもと、6歳以上のすべての男女に教育を受けさせる「国民皆学」を掲げました。

しかし、学制はフランス型の中央集権的・画一的な制度であったため、地域の実情に合わず就学率は思うように上がりませんでした。また、学費が家計の負担になることへの反発もありました。

語呂合わせ:「いちはやく(1872)学制公布」

1879年(明治12年):教育令の公布

学制への批判を受けて、1879年に「教育令」が公布されました。アメリカの教育制度を参考にした教育令は、学制と比べて地方分権的・自由主義的な性格が強く、地域の裁量を大幅に認めました。就学年限の短縮や教育内容の弾力化が認められたため、「自由教育令」とも呼ばれます。

しかし、自由化が行き過ぎたため就学率がかえって低下するなどの問題が生じました。政府は翌1880年に「改正教育令」を公布し、修身(道徳)を各学科の首位に置くなど、国家主義的な方向へ修正します。この改正は、自由民権運動が盛んになる時期と重なり、思想面の引き締めという意味合いも持っていました。

語呂合わせ:「いちはやく(1879)教育令」

1886年(明治19年):学校令の制定(森有礼)

1885年に内閣制度が発足し、初代文部大臣に就任した森有礼(もり・ありのり)は、1886年に「学校令」を相次いで公布しました。小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令の4つがその中心です。これらをまとめて「学校令」と呼びます。

学校令の特徴は、義務教育としての尋常小学校(3〜4年)と高等小学校(3〜4年)の区別が設けられたこと、師範学校で天皇への忠誠心と国家への奉仕を重視した教員養成が行われたこと、帝国大学が国家の要請に応える人材育成の場として位置づけられたことなどです。森有礼は「教育は国家のためにある」という国家主義的教育観を持ち、その後の教育体制の基礎を作りました。森有礼は1889年、大日本帝国憲法発布の日に国家主義者に暗殺されています。

語呂合わせ:「いちばんよく(1886)学校令、森有礼」

1890年(明治23年):教育勅語の発布

1890年、明治天皇の名のもとに「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)が発布されました。起草には井上毅(いのうえ・こわし)と元田永孚(もとだ・ながざね)が中心となって携わっています。

教育勅語は、忠君愛国・儒教的道徳(親孝行・夫婦の仲・兄弟愛・友人との信義など)を基本とし、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」という天皇への奉仕を国民の義務として示しました。学校の式典・祝祭日には奉読(ほうどく)が義務づけられ、御真影(天皇・皇后の写真)とともに学校に掲げられました。1890年代以降の日本の教育は、この教育勅語を精神的な軸として進められます。

語呂合わせ:「いくよ(1890)国のため、教育勅語」

1903年(明治36年):国定教科書制度の開始

1903年、小学校の教科書が国定(文部省が編集・発行)に一本化されました。それまでは検定制度が採用されており、民間の出版社が作成した教科書を使っていましたが、教科書の内容に関する不正事件(教科書疑獄)が社会問題化したことを契機に、国定化が決まりました。国定教科書制度により、全国の小学生が同一の内容を学ぶようになり、教育の国家管理がより強固になりました。

語呂合わせ:「いくおさらい(1903)国定教科書」

明治の教育制度まとめ表

制度・出来事特徴・参考にした国キーワード
1872年(明治5年)学制公布フランス型・中央集権・国民皆学邑に不学の戸なく
1879年(明治12年)教育令(自由教育令)アメリカ型・地方分権・自由主義学制への反発・就学率低下
1880年(明治13年)改正教育令修身重視・国家主義へ転換自由民権運動への対応
1886年(明治19年)学校令(森有礼)小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令国家主義的教育の基礎固め
1890年(明治23年)教育勅語忠君愛国・儒教道徳・天皇への奉仕井上毅・元田永孚が起草
1903年(明治36年)国定教科書制度文部省が小学校教科書を統一編集教科書疑獄が契機

入試で問われやすいポイント

入試では「学制・教育令・学校令の違い」と「それぞれが参考にした国(フランス→アメリカ→独自)」がよく問われます。特に森有礼が初代文部大臣として学校令を整備したこと、教育勅語の起草者(井上毅・元田永孚)、教育勅語が儒教的・国家主義的道徳を基盤にしていることは頻出です。

また、学制から教育令への転換(中央集権→地方分権)、改正教育令での修身重視への転換(自由化の揺り戻し)、そして教育勅語による国家主義的教育体制の確立、という方向の変化を流れで理解しておくと、論述問題でも対応できます。「なぜ学制は修正されたのか」「なぜ教育勅語が発布されたのか」という問いに対して、自由民権運動の高まりや欧化主義への反発という社会的文脈を絡めて答えられるようにしておきましょう。

まとめ

明治時代の教育制度は、フランス式の学制(1872)→アメリカ式の教育令(1879)→森有礼の学校令(1886)→教育勅語(1890)→国定教科書(1903)という流れで整備されました。全体として「欧米の模倣」から「国家主義・天皇中心の教育」へという転換が鮮明です。年号・制度名・特徴・参考にした国・関連人物をセットで覚え、語呂合わせも活用しながら定着させましょう。

コメント

  1. 佐藤 松子 より:

    語呂のところの教育令の年号が間違っております1879が1979になってます。

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