鎌倉時代の後半、日本を未曽有の危機が襲いました。東アジアの超大国である元が日本に攻め込んできたのです。この出来事を元寇または蒙古襲来といいます。鎌倉幕府は九州の武士たちを総動員して元軍を撃退しました。
その後、幕府を率いる北条氏は北条氏の惣領である得宗に権力を集中させる得宗専制を行うようになりました。その結果、各地の武士たちは鎌倉幕府の政治に強い不満を持ちます。
また、元寇によって得られた恩賞がわずかだったため困窮した武士たちの中には所領を売り払うものが現れます。幕府は永仁の徳政令を出して対処しましたが効果は限定的でした。
今回は元寇や元寇が与えた影響などについてまとめます。
・元が日本に攻め込んだ元寇は文永の役と弘安の役の2回
・元寇後、日本では得宗専制が強化された
・得宗専制のもと、北条家の家臣である御内人筆頭の内管領が力を強めた
・経済的に苦しむ御家人を救おうと幕府は永仁の徳政令を出したが効果はあまりなかった
モンゴル帝国の拡大
(フビライ:wikiより)
12世紀の後半、分裂していたモンゴル高原の諸部族を一つのまとめた人物が現れました。
それがモンゴル族の族長チンギス・ハンです。モンゴル帝国の初代皇帝となったチンギス・ハンは周辺諸国の征服を開始しました。
チンギス・ハンの死後もモンゴル帝国は領土拡大をつづけました。
2代皇帝オゴタイは中国の北半分を支配していた金を滅ぼします。そして、5代目皇帝となったフビライは国号を元と定め中国南部や日本を含む東アジアの征服に乗り出します。
元代について詳しくは「中国の唐王朝から清王朝までの王朝と周辺国家の関係について解説【世界史B】」を御覧ください。
二度にわたった蒙古襲来
(蒙古襲来絵詞:wikiより)
元は日本に侵攻してきます。文永の役・弘安の役と2回に渡って侵攻してきます。この2回にわたる蒙古襲来を元寇といいます。
詳しく、元寇について見て行きましょう。文永より弘安の方が長いルートであることを確認しましょう。
(元寇の日本に侵攻してきた進路:世界の歴史マップより)
文永の役
朝鮮半島の高麗を服属させたフビライは、1266年以降、たびたび国書を日本に送り修好を求めました。フビライが日本と手を結ぼうとした理由は中国南部の南宋攻略の下準備だったと考えられます。
しかし、時の執権北条時宗はフビライからの国書を黙殺します。高麗で起きた反乱を鎮圧したフビライは1274年に第一次日本遠征を実行します。これを文永の役といいました。
鎌倉幕府は九州の武士たちを動員し博多湾で防戦させますが、「てつはう」などの新兵器や元の集団戦法に苦戦します。この時、元軍は内陸部まで侵攻せず引き返しました。
弘安の役
文永の役後、幕府は九州北部の防備強化に乗り出しました。まず、異国警固番役の制度を設け、元軍が襲来してきた時に素早く対処できるようにしました。次に、文永の役で元軍が上陸した博多湾に石造りの防塁を築きます。
1275年、元は杜世忠を使者として日本に派遣しました。これに対し執権北条時宗は杜世忠を鎌倉竜の口で斬り、元に従わない姿勢を改めて示します。フビライは非常に怒りますが、南宋攻略を優先したため、すぐに日本を攻めませんでした。南宋が滅亡するのは1276年です。
1281年、準備を整えた元は14万の兵で再び日本に攻め込んできました。これを弘安の役といいます。文永の役の4倍以上の大軍でしたが、準備を整えた日本側の防戦により博多湾を占領できません。そうこうしているうちに暴風雨が発生し、元軍は撤退に追い込まれました。
蒙古襲来後の政治
(北条貞時:wikiより)
元寇の後、鎌倉幕府は体制変化を迫られます。
再び諸外国からの侵略に備えて強い幕府の力が求められることになりました。以下、詳しく見ていきましょう。
得宗専制政治の強化
元寇後、従来に比べ幕府権力が強化されました。これまで、幕府の政治は北条氏の執権と有力御家人が「評定」することで運営されていました。
しかし、北条氏の当主である得宗の力が強まると、執権と有力御家人の話し合いよりも、得宗家私邸で行われる寄合(得宗と北条一門、北条氏に仕える御内人の話し合い)で物事が決定しました。
これにより、御内人のトップである内管領の権限が強まります。こうした政治を得宗専制とよびました。戦時中など物事を素早く決定するには権力を集中させた方が良いとのことでしょう。
北条氏の守護独占
鎌倉時代は北条氏による守護独占が進んだ時代でもありました。
初代北条時政の時代は、38カ国中3カ国の守護に過ぎませんでした。承久の乱や宝治合戦などの後でも全体の3分の1以下に過ぎません。
しかし、元寇以後は明らかに北条氏の守護が増加します。1285年に北条貞時が有力御家人の安達泰盛を滅ぼした霜月騒動のとき、全国の守護の半数を北条氏が占めます。
幕府滅亡時には、北条氏の守護は過半数を越えていました。こうした守護独占は得宗専制だったからこそ実現したものです。
永仁の徳政令
元寇後、戦った御家人たちに恩賞が与えられました。
しかし、元から奪い取った土地はなかったので与えられた恩賞は御家人たちが期待するほどではありません。そのため、費用を自弁して参戦していた御家人の一部が経済的に困窮し、所領を売り払う事例が相次ぎます。
御家人たちの経済的な苦しみを救うため鎌倉幕府は1297年に応仁の徳政令を出しました。永仁の徳政令の主な内容は次のとおりです。
- 御家人所領の売買や質入れを禁止する
- すでに売却・質流れした所領は元の領主に返すこと
- 幕府が正式に売却を認めた所領や売却後20年を過ぎた土地は返却の対象外とする
- 非御家人や凡下(一般人)が買い取った土地の場合は年数に関係なく元の領主に返すこと
特に、③や④が適用されると事実上、御家人の借金が免除されたのと同じになるため借金の帳消しとなりました。
しかし、永仁の徳政令は経済的な混乱を招き御家人たちはさらに経済的に困窮するようになります。
元寇に関連する問題演習
次の(ア)(イ)に入る単語の組み合わせで適切なものを選びなさい。
平安時代後期になると、武士の成長などにより各地で政治や文化に新しい動きがみられるようになる。奥州藤原氏の根拠地である平泉につくられた( ア )や九州国東半島の富貴寺大堂は浄土思想の広がりを示すものとして著名である。政治的な面では、源頼朝が東国で蜂起し、鎌倉に拠点をおいたまま、武家政権の形を整えていく。鎌倉時代後期には、幕府は蒙古襲来を契機に異国警固番役の賦課を続けることなどを通じて全国的支配権を強化するとともに北条氏家督を継ぐ( イ )へ権力を集中していく。(2011年センター試験日本史 第3問 問1)
問1 空欄 (ア)(イ)に入る石の組み合わせとして正しいものを①~④のうちから一つ選べ
① ア 白水阿弥陀堂 イ 別当
② ア 白水阿弥陀堂 イ 得宗
③ ア 中尊寺金色堂 イ 別当
④ ア 中尊寺金色堂 イ 得宗
白水阿弥陀堂は福島県いわき市にある平安時代末期の仏堂。奥州藤原氏初代の藤原清衡の娘が建立した阿弥陀堂で国宝に指定されています。中尊寺金色堂は奥州藤原氏の本拠地である平泉に建立された寺院です。よって、ア は中尊寺金色堂が正解。北条氏のトップは得宗とよばれるのでイ は得宗が正解となります。別当は侍所や政所の長官などの呼び名として多く用いられました。
まとめ
元寇は鎌倉時代後期の日本に大きな変化をもたらしました。幕府は全国の武士に対する指揮・命令の権限を強め、幕府指導部、特に北条氏の惣領である得宗の権力が著しく高まりました。
北条氏の権力集中に対して御家人たちは強い不満を持ちます。元寇で思ったほど恩賞をもらえなかった御家人たちの一部は経済的に苦しみます。幕府は彼らを救うため永仁の徳政令を出しました。しかし、彼らの経済的苦境を救い出すことはできず幕府への失望感が高まりました。
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前回の記事「鎌倉時代の社会経済【日本史B 第26回】」を御覧ください。
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