源頼朝の死後、嫡男の源頼家が2代将軍となりました。しかし、御家人たちをまとめきれない頼家の独裁は間もなく停止され、鎌倉幕府の政治は有力御家人による合議制に移行します。やがて、頼家は将軍職を奪われ、弟の源実朝が3代将軍となります。
1219年、源実朝が頼家の遺児に殺されると、これを好機と見た京都の後鳥羽上皇が執権北条義時追討の院宣を下し、承久の乱が始まります。しかし、義時と政子は御家人たちの動揺を抑えると素早く京都に進撃し、上皇方の軍勢を打ち破りました。
承久の乱に勝利した鎌倉幕府は3代執権北条泰時が御成敗式目を発布するなど、幕府の支配体制を固め、執権政治を行うようになりました。今回は、承久の乱と執権政治についてまとめます。
・頼家と実朝の死を知った後鳥羽情報は幕府を滅ぼす好機と考え承久の乱を起こした
・承久の乱の後、幕府は京都に六波羅探題を置いた
・承久の乱で上皇方から没収した土地に新しく地頭を任命した
・北条泰時は連署や評定衆を設置し、合議制で幕府を運用した
・北条泰時は御成敗式目を定め、武家法を確立した
北条氏の台頭
(北条義時夫妻の墓:wikiより)
1199年、源頼朝が急死しました。これにより、嫡男の頼家が2代将軍となりました。しかし、頼家はまだ若く、御家人たちを十分コントロールできなかったため、頼家の独裁は停止されました。かわって始まったのが有力御家人13人による合議制です。
ところが、合議制が始まってすぐに有力御家人同士での争いが表面化します。まず、1200年に頼朝の信任が厚かった梶原景時が排除されました。つづいて、1203年に頼家の妻の父である比企能員が北条時政と争って滅ぼされました。
頼家は将軍の地位を追われ、弟の実朝が3代将軍となります。その後、頼家は伊豆の修善寺に幽閉され殺害されました。
1205年、今度は頼朝に忠義を尽くした畠山重忠が北条時政によって謀反の罪をかけられ、滅ぼされます。くわえて、1213年には侍所別当の和田義盛が北条義時の挑発に乗り挙兵しました。
これを和田合戦といいます。和田合戦は和田義盛の敗北に終わりました。
承久の乱
(後鳥羽上皇:wikiより)
承久の乱の背景
まず、源氏将軍については、1219年に3代将軍源実朝が頼家の子によって殺害されることによって断絶してしまいました。
(源の家系図)
義時は後鳥羽上皇に皇族の一人を将軍として鎌倉に派遣してもらおうとしました。しかし、後鳥羽上皇は義時の要請を拒みます。
困った義時は頼朝の血をひく摂関家の藤原頼経を将軍として迎えました。これを摂家将軍(藤原将軍)といいます。では、なぜ皇族の将軍就任を拒んだのでしょうか。おそらく、後鳥羽上皇が討幕の意思を固めつつあったからだと考えられます。
そもそも、朝廷からすれば東国限定とはいえ、朝廷と別の政治の仕組みが存在することは我慢ならないことだったでしょう。そんなときに、源実朝が暗殺されたのです。後鳥羽上皇が幕府を倒すチャンスと考えても不思議ではありません。
承久の乱の推移
1221年5月、後鳥羽上皇は義時追討の院宣を発し、京都に軍勢を集めました。知らせを聞いた義時は御家人たちに幕府を守るため、鎌倉に参集するようよびかけます。
集まった御家人に対し、北条政子は御家人が頼朝から受けた恩は「海よりも深く、山よりも高い」として、頼朝がつくった幕府を守るよう叱咤しました。これに応じ、上皇軍をはるかに上回る軍勢が鎌倉に集まります。
幕府軍は集まった軍勢を三つに分け、北陸道・東山道・東海道から京都を目指して進撃を開始しました。総勢19万にも及んだ幕府軍は各地で後鳥羽上皇の軍を圧倒し、京都を制圧します。これにより、承久の乱は幕府の圧勝で幕を閉じました。
承久の乱の戦後処理
(百人一首 後鳥羽院:wikiより)
三上皇の配流と仲恭天皇の退位
敗戦の結果、承久の乱を主導した後鳥羽上皇や順徳上皇、彼らに連座する形で土御門上皇が地方に配流となりました。
後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐にそれぞれ流されます。また、仲恭天皇は廃位とされ、後堀川天皇が即位します。
六波羅探題の設置
京都には京都守護にかわって六波羅探題が設置されました。
六波羅探題は朝廷の監視や京都内外の警備、西国の統治をおこなう重要な機関で北条氏一門が六波羅探題のトップに就任しました。
新補地頭
承久の乱後、上皇方についた貴族や武士の所領3000か所が没収されました。
かわりに、戦いで功績をあげた御家人たちが地頭に任命されます。新たに任命された地頭は、従来よりも多くの収入を得られる新補率法の適用を受ける新補地頭と、従来と同じ収入の本補地頭の2種類いました。
執権政治の確立
(北条泰時:wikiより)
執権を中心とした合議体制
1224年、北条泰時が3代目の執権となりました。
彼は執権による独裁を避けるため、北条氏一門の有力者を連署とし、有力御家人を評定衆に任じて合議制で政策の決定・裁判を行うようにしました。
こうした政治のしくみを執権政治といいます。
御成敗式目
1232年、北条泰時は御成敗式目を制定しました。その内容は頼朝以来の先例と道理(武家社会の慣習・道徳)を成文化したものです。この法律が作られた目的は、御家人間や御家人と荘園領主間の紛争を公平に解決するための裁判の基準を世の中に示すことです。
また、御成敗式目の適用範囲はあくまでも幕府の支配領域に限られ、武家のためのものとされました。朝廷の法律である公家法や荘園のルールである本所法を否定するものではないことに注意が必要です。
御成敗式目の内容は守護地頭に関すること、所領の支配・相続、重罪人の処罰などでかなり広範囲に及びます。もっとも重要なのは、20年以上支配すれば、過去は問わずに現在の領主に所有権を認めるという「知行年紀法」という規定です。
御成敗式目の制定後、新たに内容を追加する場合は「式目追加」という形をとりました。そして、鎌倉時代以降、御成敗式目は武家にとって基本的な法律として生き続けます。
入試問題にチャレンジ
下線部(承久の乱では、御家人が後鳥羽上皇方(京方)の没収所領の地頭に任命された)に関連して、鎌倉幕府が幕府側に味方した武士に与えた文書である。次の史料に関して述べた下の文a~dについて、正しいものの組み合わせを下の①~④のうちから一つ選べ
史料 備後国地毗荘(注1)の事、地頭重俊の子息太郎、京方において死去せしむといえども、同次郎(注2)、御方において合戦の忠を致しおわんぬ。しかれば重俊の地頭職、相違なく安堵せしむべきの状、仰せにより下知くだんの如し(注3)注1 備後国地毗荘:現在の広島県にあった荘園
注2 同次郎:重俊の子息である次郎
注3 仰せにより下知くだんの如し:幕府の命令は以上のとおりであるa 次郎は、後鳥羽上皇側の味方として承久の乱に参加した
b 次郎は、鎌倉幕府側の味方として承久の乱に参加した
c 息子が鎌倉幕府側に味方したので、重俊は地頭職を安堵された
d 息子が後鳥羽上皇側に味方したので、重俊は地頭職を没収された① a・c ② a・d ③b・c ④b・d
(2017年 センター試験 本試験 第三問 問2より)
史料の内容は、備後国地毗荘の地頭重俊の地頭職についてのことです。重俊の息子の太郎は後鳥羽上皇側として戦いすでに亡くなっていました。しかし、もう一人の子である次郎は鎌倉幕府側に味方して戦ったので、重俊の地頭職はそのまま安堵せよという鎌倉幕府の命令です。
ということは、次郎が鎌倉幕府に味方したことと、重俊が地頭職を安堵されたことが書かれているbとcが正文ということになります。
まとめ
頼朝の死後、若年の頼家は独裁を廃され、鎌倉幕府の政治は有力御家人による合議制に移行します。中でも最も力を発揮したのが北条時政・義時でした。彼らは梶原景時や比企能員、畠山重忠、和田義盛らを倒し権力を握ります。
後鳥羽上皇が討幕の兵をあげた承久の乱では、北条義時・北条政子を中心に鎌倉幕府が団結し、後鳥羽上皇の軍勢を打ち破りました。これにより、鎌倉幕府の力はさらに強まります。幕府は六波羅探題を設置し、朝廷と西国の監視を行うようになりました。
戦いに勝利した北条泰時が執権となると、連署や評定衆を設置し合議制で幕府の政治をおこないます。執権を中心としたこの政治のしくみを執権政治とよびました。
鎌倉幕府の支配が全国に及ぶにつれ、御家人と御家人、御家人と荘園領主の争いが激しさを増しました。そのため、北条泰時は御成敗式目を制定し、裁判の基準を明らかにしました。
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前回の記事「鎌倉幕府のしくみ(役職や経済基盤)について解説!関連入試問題も解説【日本史B】」
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