こんにちは。今回も「【世界史B】受験に役立つインド史」シリーズをはじめます。今回、第5回はムガル帝国についてです。タージ=マハールが有名ですね。
北インドを中心に支配を広げたイスラーム勢力はムガル帝国の時代に最大の領土を獲得します。中央集権化を進め、ムガル帝国の力を向上させたのがアクバルでした。彼はジズヤを廃止し、マンサブダール制などを整備することでムガル帝国の基盤を強固にしていきました。
ムガル帝国が最大版図を誇ったのはアウラングゼーブの時代です。また、ムガル帝国の時代、インド古来のヒンドゥー教文化とイスラーム文化が融合した独特の文化が生み出されました。
今回の記事のポイント・バーブルはパーニーパットの戦いでロディー朝を倒し、ムガル帝国を建国
・アクバルはジズヤを廃止しイスラーム勢力とヒンドゥー勢力の融和を図りマンサブダール制で国の基盤を固めた。
・アウラングゼーブのとき、ムガル帝国の領土は最大になるもジズヤを復活させ、ラージプートらの反発を招いた
・イスラーム教徒ヒンドゥー教が融合してできたのがシク教。開祖はナーナク
・タージ=マハルはインド=イスラーム文化を代表する傑作
ムガル帝国の建国
(バーブル:wikiより)
16世紀の初め、ウズベク人のシャイバニがティムール朝を滅ぼしました。以前、受験に役立つオリエントの歴史シリーズでティムール帝国について記載しました。是非、オリエント史「ティムール朝とサファヴィー朝」をお読みください。
ティムール帝国の王族だったバーブルはシャイバニとの争いに敗れアフガニスタンに逃れます。そこで体勢を立て直したバーブルは、北インドに矛先を向けました。
1526年、バーブルはロディー朝とのパーニーパットの戦いに勝利しデリーに入城します。ムガル帝国の建国を宣言します。しかし、バーブルの死後、ムガル帝国はデリーを追われるなど北インド定着に苦労しました。
1555年、ようやく勢力を回復したムガル帝国はデリーを奪回します。ムガル帝国の支配を復活させました。具体的なバーブルの進軍は以下の通りです。
アクバルによる中央集権化
(アクバル:wikiより)
ムガル帝国の支配が安定期を迎えるのは3代皇帝アクバルの時代です。1565年、アクバルは都をアグラに移します。彼はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和を図り、支配の安定化を目指しました。
そのため、アクバルは異教徒に課す税であったジズヤ(人頭税)を廃止するなど、地方で勢力を持つラージプート諸豪族への配慮を見せました。
アクバルは支配者層をマンサブとよばれる位で再編します。マンサブを与えられたものはマンサブに応じて給与地での徴税権(ジャーギール)を与えられ、それに見合う兵力の提供を義務付けました。この制度をマンサブダール制といいます。
マンサブダール制によって兵力を確保したアクバルは北インドをほぼ平定します。晩年には、デカン高原北部まで勢力を拡大しました。
ムガル帝国の最大領土を築いたアウラングゼーブ
(アウラングゼーブ:wikiより)
アクバルの死後、ムガル帝国の皇位は4代目のジャハンギール、5代目のシャー=ジャハーンと受け継がれました。この時期がムガル帝国の最盛期といってよいでしょう。シャー=ジャハーン時代に都はデリーに戻されます。
アクバルが敷いたヒンドゥー教徒との融和路線は17世紀後半に即位したアウラングゼーブによって打ち破られます。敬虔なイスラーム教スンナ派の信者だったアウラングゼーブはジズヤ(非イスラム教徒に課す人頭税)を復活させ、ヒンドゥー教徒勢力との対立を招きます。
ムガル帝国において、イスラーム教は全体の1割に過ぎず、残りの9割を占めるヒンドゥー教やシク教などの人々はムガル帝国に反発します。アウラングゼーブは軍隊を送って反発の動きを抑えさせました。その結果、アウラングゼーブ時代に帝国の領土は最大となります。
しかし、ヒンドゥー教徒のラージプート諸国や西北インドのシク教徒が多数を占めるパンジャブ王国などはムガル帝国から離反してしまいました。特に、デカン高原にあったヒンドゥー教王国のマラーター王国はムガル帝国に公然と歯向かいます。
インドの非イスラーム勢力
( ハリマンディル=サーヒブ(黄金寺院):wikiより)
北インドにはイスラーム教のムガル帝国が成立しましたが、西北インドにはシク教徒、デカン高原以南にはヒンドゥー教勢力が大きな影響力を持っていました。
シク教はナーナクによって開かれた宗教です。ナーナクはイスラーム教の影響を受け、ヒンドゥー教の改革を主張しました。ナーナクは偶像崇拝の否定やカーストの否認、一神教信仰などを主張します。従来のヒンドゥー教と一線を画します。
インド中部にはヒンドゥー教諸侯であるラージプートの王国が分立していました。デカン高原にはマラーター王国が成立し、ムガル帝国のアウラングゼーブと激しく戦います。
マラーター王国は南インドを支配していたヴィジャヤナガル王国に連なる人々が作った王国でした。しかし、大本であるヴィジャヤナガル王国はアウラングゼーブによって滅ぼされてしまいます。
ヴィジャヤナガル王国の時代に中国の明の時代の鄭和が来ます。詳しくは「洪武帝と永楽帝の明について受験で覚えておきたい4つのポイント」を見てください。
アウラングゼーブの死後、インドを一つにまとめるほど強力な王朝は現れず、インドは再び分裂時代となりました。
インド=イスラーム文化
(タージマハル:wikiより)
ムガル帝国の時代、西から流入したイスラーム文化と在来のヒンドゥー文化が融合し、独特のインド=イスラーム文化が誕生しました。ヒンドゥー語にペルシア語やアラビア語の語彙が入り混じったウルドゥー語の成立が象徴的ですね。
融合は言語にとどまらず、宗教面でもイスラーム教徒ヒンドゥー教が融合したシク教が生み出されました。
絵画では、イランの細密画の影響を受けたムガル絵画が花開き、繊細なタッチの美しい絵が描かれます。
この時代を代表する建物はなんといってもタージ=マハルでしょう。シャー=ジャハーンが愛するムムターズのために建てた霊廟がタージ=マハルです。白い美しい建物です。
まとめ
北インドに侵入したバーブルはパーニーパットの戦いでロディー朝の軍を撃破しムガル帝国を建国します。ムガル帝国の土台を固め国力を強めたのがアクバルでした。アクバルはヒンドゥー教徒との融和を行い、ジズヤを免除しました。
しかし、アクバルのひ孫にあたるアウラングゼーブはイスラーム教による厳格な統治を実施。帝国内で宗教対立が深まり、各地の勢力はムガル帝国から離反しました。
次回の記事
前回は、インドにおけるイスラーム化についてお話しました。詳しくは「【世界史B】受験に役立つインドの歴史(インドのイスラーム化)第四回」をご参照ください。
コメント