第一次大戦後、敗北したドイツはイギリス・フランスなどの戦勝国との間でヴェルサイユ条約を締結しました。結果、アルザス・ロレーヌ地方をドイツは失います。
この条約の下、ドイツなど敗戦国の再起を抑止する体制をヴェルサイユ体制と言います。
一方、太平洋ではアメリカ中心の秩序であるワシントン体制が形作られます。
ヨーロッパのヴェルサイユ体制と太平洋のワシントン体制は第二次世界大戦まで続きました。
今回は、ヴェルサイユ体制とワシントン体制について解説していきいます。また、おすすめの語呂合わせや地図についても記載しますので勉強の参考にしてください。
今回の記事のポイント・ヴェルサイユ条約でフランスはアルザス=ロレーヌを取り戻した
・ヴェルサイユ条約でドイツは領土を失い天文学的な金額の賠償金を課せられた
・国際連盟は経済制裁しか実行できず、アメリカが不参加だった
・ヨーロッパではヴェルサイユ体制が、太平洋ではワシントン体制が出来上がった
・シュトレーゼマン、ケロッグ、ブリアンなどの活躍で国際協調路線ができた
ヴェルサイユ条約
(ヴェルサイユ4巨頭:wikiより)
1919年1月、パリで講和会議が開かれました。
第一次世界大戦で大損害を受けたイギリスやフランスはドイツに対して過酷な条件を提示します。6月、ヴェルサイユ条約が調印されました。
この条約でドイツは全ての海外植民地を喪失します。本国領土の13%を周辺国に割譲しました。
フランスは普仏戦争で奪われたアルザス=ロレーヌ地方を奪還します。
普仏戦争でアルザスロレーヌ地方が奪われた経緯については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イタリア・ドイツの統一)【近現代編その5】」が詳しいので読んでください。
(アルザス=ロレーヌの地図)
ポーランドはバルト海に面することができるようポーランド回廊を獲得しました。
(ポーランド回廊の地図:wikiの画像を使用)
また、ザール地方はのちにつくられた国際連盟の管理下に置かれ、15年後の投票でどの国に属すか決定されることになります。
ドイツは軍備も制限され、潜水艦や軍用機の保有を禁じられました。
さらに、ライン川右岸のラインラントは非武装地帯とされライン川左岸は連合軍によって15年間占領されます。
加えてドイツは1320億金マルクという途方もない賠償金を課せられました。
行く行く(1919)ヴェルサイユ条約
ドイツ以外の敗戦国について
(ハプスブルク家がオーストリアから去る:wikiより)
ドイツ以外の敗戦国とは個別に条約が結ばれました。
オーストリアに対してはサン=ジェルマン条約が結ばれます。
この条約でオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、東欧諸国が独立します。また、未回収のイタリアの大半はイタリアに割譲されました。
ハンガリーとはトリアノン条約が結ばれます。
オーストリアからの完全分離と周辺国への領土割譲が主な内容でした。
ブルガリアに対してはヌイイ条約が結ばれます。
トルコについては、トルコ領土について戦時中にイギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国の領土を委託統治するサイクス=ピコ条約という秘密条約が結ばれました。戦後は、トルコが連合国セーヴル条約を結びました。
この内容はかなり厳しいものでした。
ダーダネルス海峡の非武装化やメソポタミア・パレスチナをイギリスの信託統治領に、シリアをフランスの信託統治領にするものでトルコ領土は大きく縮小します。
当時の東欧の地図がこちらです。
・オーストリア:サンジェルマン条約(未回収のイタリアがイタリアに割譲)
・ハンガリー:トリアノン条約
・ブルガリア:ヌイイ条約
・トルコ:サイクス=ピコ条約(第一次大戦中)→セーブル条約(ダーダネルス海峡の非武装化など)
ワシントン体制
(ハーディング:wikiより)
アメリカは1921年アジア・太平洋での主導権を握るためワシントン会議を開催します。
会議の提唱者はアメリカ大統領のハーディングでした。
ワシントン会議で成立した一連の条約や決議によってつくりだされた、戦後の東アジア、太平洋における国際秩序体制をワシントン体制といいます。
なお、この結果、日本が外交上孤立化していくことになります。
ワシントン会議で決まった条約は全部で3つあります。
1.四カ国条約
アメリカ・イギリス・日本・フランスが太平洋での現状維持と日英同盟の解消を決定しました。
2.九カ国条約
中国の領土保全と機会均等・門戸開放を定めます。
これにより日本は青島や山東省利権を中国に返還。
石井=ランシング協定は破棄されました。
3.海軍軍備制限条約、ワシントン海軍軍縮条約
この条約により各国の主力艦保有比率がアメリカ:イギリス:日本:イタリア:フランス=5:5:3:1.67:1.67と定められました。
軍縮と国際協調
(シュトレーゼマン:wikiより)
1920年代後半になると国際協調が図られます。
1925年、ドイツ外相シュトレーゼマンの提唱でラインラントの現状維持と相互不可侵を約束するロカルノ条約が結ばれました。
言ってしまえば、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの5ヶ国における地域的集団安全保障条約です。ロカルノ条約発効により、ドイツの国際連盟加盟が認められます。
しかし、1927年のジュネーヴ軍縮会議は各国の足並みがそろわず失敗に終わります。1928年、アメリカ国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンが中心となり紛争解決の手段として戦争に訴えないとする不戦条約が結ばれます。
軍縮の流れは1930年のロンドン海軍軍縮条約に引き継がれ、アメリカ・イギリス・日本の補助艦保有比率が10:10:7と定められました。
関連問題
今回は、上智大学(経営・総合グローバル)2019年第一問の問題を改変してお送ります。是非ともじっくりと考えてみてください。
問1 ドイツが第一次世界大戦で失った領土に該当しないものは次のうちどれか?
①トーゴラント②カメルーン③ズデーテン地方④中国山東省
問2 第一次世界大戦後の世界においてヨーロッパの覇権はどのような形で揺らぎ、どのような形で立て直されたと言えるのかを350字程度で論じなさい。なお以下の用語全てを使用しなさい。
(用語:ワシントン体制、旧オスマン帝国、サイクス・ピコ協定、委任統治、植民地)
まとめ
第一次世界大戦に敗れたドイツやオーストリアは過酷な条約を受け入れざるを得ませんでした。大戦中におきたロシア革命とあわせて、ドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国が滅亡します。
民族自決の原則に従い東欧諸国が独立します。二度と世界大戦を越さないため国際連盟がつくられ、世界恐慌が起きる前までは国際協調主義にしたがい、各国が話し合いで紛争を解決しようと試みました。今回は、以上です。
前回は、「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(ロシア革命とソ連の成立)【近現代編その10】」について述べました。
次回は「戦間期のヨーロッパ」について述べます。
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