こんにちは。今回も受験生に役立つヨーロッパの歴史シリーズをはじめます。近現代シリーズ第10回は【ロシア革命とソ連の成立】を取り上げます。
ロシア革命やその前後の出来事は入試でも高頻出です。しっかりと流れを整理することで高得点に結びつけましょう。今回は、20世紀の世界に大きなインパクトを与えたロシア革命とソ連の成立について解説します。
今回の記事のポイント・血の日曜日事件がきっかけとなり第一次ロシア革命が起きた
・レーニンのボリシェヴィキがロシア共産党のもととなった
・二月革命後、臨時政府とソヴィエトによる二重権力状態が出現
・レーニンの政府は二つの布告を出して第一次世界大戦から離脱
・連合国は対ソ干渉戦争をしかけるが、レーニンは戦時共産主義を実行し革命を守る
第一次ロシア革命
(血の日曜日事件:wikiより)
1904年、日露戦争が始まりましたが開戦前の予想に反してロシアは大苦戦します。1905年に首都ペテルブルクでのデモに対し軍が発砲する「血の日曜日事件」が起きます。9月に日露戦争が終わってもロシアの混乱は収まりませんでした。
政府は改革派のウィッテらが中心となり事態打開に動きます。10月、皇帝ニコライ2世の名で十月宣言が出され、国会の開設(ドゥーマ)が約束されました。
このころ、労働者の代表機関であるソヴィエトがロシア各地で結成されます。ソヴィエトとは、自然発生的に形成された労働者・農民・兵士の評議会(理事会)のことで、一般民衆の集まりというイメージをもつと良いでしょう。
第一次ロシア革命が下火になると、政府は反動政治を行い専制政治を強めます。ストルイピン首相は革命思想が農民に広がるのを防ぐため、農村にあった共同体であるミールを解体します。しかし、これが逆効果となります。農民たちは政府に対する反発を強めました。
ミール解体などのストルイピン首相の土地改革は国会でも追及されます。ストルイピンは皇帝の勅令を乱発して国会を乗り切ろうとしたのでストルイピンへの反発が強まりました。1911年、ストルイピンはキエフで暗殺されてしまいます。
ロシアの政党
(レーニン:wikiより)
19世紀末から20世紀にかけて、ロシアではいくつかの政党が結成されました。1898年、プレハーノフはロシア社会労働党を結成します。1903年にロシア社会労働党が分裂。レーニンが率いるボリシェヴィキとプレハーノフやマルトフ率いるメンシェヴィキに分かれました。
先に西欧型の民主主義を達成し、その後に社会主義化を図るとするメンシェヴィキに対し、ボリシェヴィキは少数の革命家が指導する厳格な党組織が革命を主導すべきだと考えます。ボリシェヴィキはのちにロシア共産党となりました。
他にもナロードニキ運動の流れをくむ社会革命党(エス=エル)や資本家や地主層が中心となった立憲民主党(カデット)などの政党がありました。
ちなみに首都大東京(2019年)では共産主義の基本を作ったマルクスの著作を問題にしています。マルクスは社会主義思想を簡潔に示した『共産党宣言』を1848年に発行し、史的唯物論に基づき経済の実態を分析した(例えば資本家と労働者の対立など)『資本論』を発行し、二つの著作は共産主義者に大きな影響を与えています。
二月革命と二重権力状態
(二月革命)
1914年、第一次世界大戦がはじまるとロシアも総力戦体制に移行します。タンネンベルクの戦いで大敗したロシア軍はドイツ・オーストリア軍に大きく押し込まれました。産業基盤が弱いロシアは総力戦に耐えられず、国民生活は悲惨なものとなります。
ちなみにタンネンベルクの戦いなど第一次世界大戦については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(第一次世界大戦)【近現代編その9】」を詳しく読んでください。
戦争終結を求める首都ペトログラードの民衆は1917年3月(ロシア暦2月)にストライキやデモを決行します。「専制打倒、戦争反対」を掲げた民衆に軍隊が呼応します。皇帝ニコライ2世は退位に追い込まれました。これが二月革命です。
ニコライ2世の退位後に成立した臨時政府は連合国の要請もあり、戦争を継続しました。そのため、労働者や農民は各地でソヴィエトを結成します。ソヴィエトの意味は上記に記載してあるように労働者や農民などの評議会でしたね。
このソヴィエト(ボリシェヴィキ)ですが、当然、臨時政府と激しく対立します。ロシアは臨時政府とソヴィエトという二つの権力が存在する二重権力状態となりました。ちなみに臨時政府とメンシェヴィキの方は協力体制になりますので注意です。
十月革命と二つの布告
(冬宮への突入:wikiより)
ボリシェヴィキの指導者レーニンは指名手配中で国外に逃れていました。1917年の二月革命の知らせを聞いたレーニンはロシアに帰国します。四月テーゼを発表し「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えます。
7月、臨時政府の首相に社会革命党のケレンスキーが就任します。しかし、ケレンスキーも戦争を止めようとしなかったので国民の怒りは頂点に達しました。
1917年11月(ロシア暦10月)、トロツキーに率いられたボリシェヴィキが臨時政府に対し武装蜂起します。臨時政府を崩壊させ権力を握ります。権力を握ったレーニンは直ちに二つの布告を出しました。
一つ目は「平和に関する布告」です。すべての抗戦国に対し、無併合・無賠償・民族自決を原則とする戦争終結を訴えました。二つ目は「土地に関する布告」です。地主の土地を無償で没収し農民たちに分け与えました。
対ソ干渉戦争と反革命運動
(ウラジオストクに入る列強軍:wikiより)
レーニン率いるボリシェヴィキの政府はドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し、戦争から離脱しました。他の連合国は勝手な戦線離脱だとして反発を強めました。
1918年、イギリス・フランス・アメリカ・日本はシベリアで孤立したチェコ兵救出を口実としてロシア領に軍隊を送り込みます。シベリア出兵に最も積極的だったのは日本でした。イギリス・フランス・アメリカが撤兵したあとも日本は1922年までシベリアにとどまります。ただ、国家的に利益を何一つもたらすものはなかったと評価されています。
また、ボリシェヴィキに反対する勢力は各地で反革命政権を樹立して抵抗しました。ボリシェヴィキの軍が赤軍と呼ばれたのに対し、反革命軍は白軍とよばれます。
レーニンは対ソ干渉戦争や反革命運動に対抗するため、戦時共産主義を実施しました。農民たちから強制的に穀物を徴発して前線に送ります。穀物を隠した農民は秘密警察のチェカによって逮捕されました。労働者も強制労働させられます。
戦時共産主義で戦争は継続できたものの、労働意欲が減退して生産力が低下しました。干渉戦争や反革命運動が収まったのち、レーニンは新経済政策(ネップ)を実施します。穀物の強制徴発禁止や余った穀物の自由販売を許可します。中小企業の私営も許可します。新経済政策のおかげで生産力は大戦前の水準まで回復しました。
1922年、レーニンはソヴィエト社会主義共和国連邦の樹立を宣言します。これにより、世界初の社会主義国家が誕生しました。
まとめ
ロシア革命の結果、400年近く続いたロマノフ王朝が崩壊します。しかし、すぐにソ連ができたわけではありませんでした。
二月革命、十月革命と進行することでレーニンが権力を握りロシアを社会主義化したのです。列強は対ソ干渉戦争をおこないますが失敗。1922年に世界初の社会主義国家であるソヴィエト社会主義共和国連邦が成立しました。
次回は、第一次世界大戦の終結後の各国の話です。ヴェルサイユ体制とワシントン体制について述べていきます。楽しみにしておいてください。
前回の記事の第一次世界大戦「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(第一次世界大戦)【近現代編その9】」はこちら
次回の記事は「ヴェルサイユ体制とワシントン体制」です。
コメント