【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イタリア・ドイツの統一)【近現代編その5】

みなさん、こんにちは。今回も「受験に役立つヨーロッパ史」シリーズをはじめます。近現代シリーズ第5回はイタリアとドイツの統一を取り上げます。

 

フランスやイギリスなどが国内を統一する一方、イタリアやドイツは小国分立の状態が19世紀まで続きました。しかし、19世紀後半になると、イタリア・ドイツで国内の統一の機運が高まります。

 

今回の記事のポイント・青年イタリアを率いたマッツィーニがローマ共和国をつくるが失敗

・カヴールを中心としたサルデーニャ王国がイタリア統一の中心となった

・ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が消滅し、ドイツ連邦ができた

・フランクフルト国民議会は小ドイツ主義を採用したが、ドイツ統一はできなかった

・プロイセンのビスマルクは普墺戦争、普仏戦争で勝利しドイツ統一を実現した

ウィーン体制下のイタリア

(マッツィーニ:wikiより)

中世以来、イタリアは小国がたくさん寄せ集められた状態の国でした。ウィーン会議の結果、ヴェネツィアとロンバルディア地方はオーストリア領となります。ローマでは教皇領が復活しました

 

ウィーン会議については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(ウィーン体制とその崩壊)【近現代編その1】」に詳しく書いてあります。理解できていない人は是非とも読んでください。

 

1820年、イタリアでイタリアの自由と独立を求める「カルボナリ(炭焼党)」が反乱をおこします。七月革命後の1831年にもカルボナリが反乱を起こしますがいずれも失敗しました。

 

カルボナリにかわってイタリア独立運動をけん引したのがマッツィーニです。彼はカルボナリの一員でしたが、「青年イタリア」を結成し、共和主義によってイタリアを統一しようとしました。

 

1848年、ウィーン三月革命でメッテルニヒが失脚するとマッツィーニは革命運動をもりあげます。革命の動きを恐れてローマ教皇は国外に脱出。マッツィーニは「ローマ共和国」の樹立を宣言しました。

 

イタリアの混乱に乗じてオーストリアが干渉してくることを恐れたフランスのルイ=ナポレオンはローマに出兵します。ローマ共和国を倒し、教皇領を復活させました。以後、フランスは教皇領の後ろ盾となります。

サルデーニャ王国を中心とするイタリア統一

(カヴール:wikiより)

ウィーン体制後のイタリアで最も国力が強かったのがトリノを首都とするサルデーニャ王国でした。1848年、サルデーニャ王カルロ=アルベルトは北イタリアを支配するオーストリアと戦いますが敗北し、王位をヴィットリオ=エマヌエーレ2世に譲りました。

 

1852年、サルデーニャ王国の首相に就任したカヴールは、富国強兵策でサルデーニャ王国の国力を強める一方、巧みな外交でサルデーニャ王国中心のイタリア統一運動を指導しました。

 

1855年、サルデーニャ王国はクリミア戦争に参戦。イギリス・フランスに味方してロシアと戦いました

 

カヴールは、イギリス・フランスに恩を売り、イタリア統一の際に味方にしようと考えました。ちなみに、クリミア戦争については前回の記事「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(19世紀のロシアと南下政策)【近現代編その4】」に詳しく書いてあります。

 

カヴールの基本方針は、フランスと手を組んで北イタリアにいるオーストリア軍を追い払うことにありました。1858年、カヴールはナポレオン3世プロンビエールの密約を結びました。

 

この密約で、フランスがサルデーニャ王国の味方となってオーストリアと戦うことを条件に、サルデーニャ領のサヴォイアとニースをフランスに譲るというものでした。

 

フランスの支援を取り付けたサルデーニャ王国はオーストリアに宣戦布告します。戦いはサルデーニャ優位に進みますが、サルデーニャの強大化を心配したフランスが勝手にオーストリアと講和します。そのため、サルデーニャはロンバルディア地方を得るのみで戦争を終わらせます。

 

オーストリアとの戦いに勝ったサルデーニャ王国はフランスの黙認のもと、中部イタリアの小国を併合します。1860年、義勇軍を率いたガリバルディは両シチリア王国を占領します。その統治権をサルデーニャ王のヴィットリオ=エマヌエーレ2世に譲りました。

 

1861年、トリノを首都とするイタリア王国の成立が宣言されます。しかし、ヴェネツィアやローマはイタリア王国に含まれませんでした。普墺戦争に乗じてヴェネツィアを、普仏戦争に乗じてローマを併合することで、イタリアがほぼ統一されました。

 

このとき、イタリア王国が併合できなかった南チロルやトリエステなど「未回収のイタリア」といいます。

未回収のイタリアは第一次世界大戦の原因の一つとなりました。(南山大学の問題で未回収のイタリアの場所を聞く問題が出題されました。南チロルとトリエステは覚えておきましょう!!)

イタリア統一の流れの図

当時のイタリアをめぐる地図を作成しました。場所などがわかりにくい場合は、是非ともこの地図を見ながら理解をしていきましょう。

関連問題

この時代についての関連問題を一つ出題します。東海大学の問題です。

1852年にサルデーニャ王国の首相に就任し、のちのイタリア統一に尽力したのは誰か、その名前を記しなさい。−東海大学(2019年大問3問5)

カブール

 

 

次に南山大学の問題からみてみましょう。わからなければ上記記載をもう一度みてみましょう。

(1)19世紀前半のイタリアに関する記述として正しいものを選びなさい

  • ①ウィーン会議の結果、スペインが北イタリアを得た。
  • ②ブルシェンシャフト運動と呼ばれる学生運動が起こった
  • ③マッツィーニが「青年イタリア」を結成した。
  • ④二月革命に建設されたローマ共和国がイギリス軍に倒された。

 

(2)サルデーニャ王国に関する記述として誤っているいるものを選びなさい

  • ①自由主義者のカブールが首相になった
  • ②クリミア戦争に参加した
  • ③ナポレオン3世とプロンビエール密約を結んだ
  • ④オーストリアとの戦争に勝利しサヴォイアとニースを併合した

(南山大学2019年人文大問5より)

正解③
解説:①についてはウィーン会議で北イタリアを得たのはオーストリア、②のブルシェンシャフト運動はドイツで起こった④のローマ共和国はナポレオン3世のフランス軍に敗れた。

 

正解④
解説:プロンヴエールの密約をナポレオン3世と締結し、フランスにサヴォイアとニースを割譲するのを条件にサルデーニャ王国はオーストリアとの戦いに勝ち中部イタリアの併合がなされました。

 

ナポレオン戦争後のドイツ

(フランツ2世:wikiより)

1805年、アウステルリッツの戦いに勝利したナポレオンI世は、ライン川流域の諸侯を集めてライン同盟を結成します。このあたり詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランス革命とナポレオン)【近代編その6】」をお読みください。

 

これをうけてハプスブルク家のフランツ2世は神聖ローマ帝国皇帝を退位します。最後の神聖ローマ帝国の皇帝でした。そして、神聖ローマ帝国は完全に消滅しました

 

ナポレオンの没落後、ライン同盟は消滅しオーストリアを議長国とするドイツ連邦が結成されました。1834年、経済学者のリストが提唱したドイツ関税同盟が成立します。関税同盟の中心はプロイセンでした。

 

フランスで二月革命が起きると、プロイセン、オーストリアでも三月革命が勃発します。ウィーン体制の象徴でもあったオーストリアの宰相メッテルニヒが失脚しました。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

大ドイツ主義と小ドイツ主義

(フランクフルト国民議会:wikiより)

1848年、ウィーンやベルリンで起きた三月革命によってドイツ統一の機運が高まりました。ドイツ各地の代表がフランクフルトにあつまり、ドイツ統一と憲法制定を目指す会議が開かれました。これがフランクフルト国民議会です。

 

会議ではドイツ統一をめぐって二つの考え方が対立します。一つは、多民族国家であるオーストリア帝国を含むドイツの統一です。オーストリアの庇護の下、国を作ろうというものですね。もう一つは、プロイセンを中心としたドイツ民族中心のドイツ統一です。

 

オーストリアも含む広い範囲のドイツ統一を大ドイツ主義といいました。一方、オーストリアを排除し、プロイセンを中心としてドイツを統一する考えを小ドイツ主義といいます。

 

S先生
S先生
単純にオーストリアというでかいドイツを大ドイツ、プロイセンというドイツ人だけの小さい小ドイツと覚えておくといいわ。

 

フランクフルト国民議会では小ドイツ主義によるドイツ統一が決定され、ドイツ皇帝としてプロイセン王を選出しました。しかし、プロイセン王が即位を拒否したためフランクフルト国民議会でのドイツ統一はうまくいきませんでした。

プロイセン王国を中心とするドイツ統一

(ビスマルク:wikiより)

1862年、プロイセン王ヴィルヘルム1世はビスマルクを首相に任命しました。ビスマルクは「ドイツ統一は鉄と血によってのみ解決される」という鉄血演説を行い、プロイセンによるドイツの武力統一をはかりました。鉄と血とは、軍事力の事です。圧倒的な軍事力で相手を制圧していくという政治ですね。

 

S先生
S先生
このビスマルク、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という名言も残しています。とにかく言葉の使い方が秀逸です。優れた政治家という事でしょう。

 

1864年、デンマーク領のシュレスヴィヒ・ホルシュタインをめぐってデンマークとプロイセン・オーストリアが戦争となりました。戦いはプロイセン・オーストリア連合の勝利に終わります。

 

1866年、プロイセンとオーストリアはシュレスヴィヒ・ホルシュタインの管理をめぐって対立します。ビスマルクはオーストリアを巧みに挑発して戦争に持ち込みました。戦いはプロイセン軍がオーストリア軍を圧倒します。わずか7週間でプロイセンの勝利に終わります。

 

プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)の結果、ドイツ連邦が解体されプロイセンはドイツ領国内で領土を拡大します。さらに、1867年にプロイセン中心の北ドイツ連邦ができました。普墺戦争の敗北でオーストリアはドイツ統一から排除されます。ちなみにバイエルン、ヴェルテンベルクなど一部の地域は北ドイツ連邦に参加しませんでした。

 

1868年、スペイン王位が空位となるとプロイセンの王子がスペイン王となる話が持ち上がります。これに大反対したのがフランスのナポレオン3世でした。ナポレオン3世はプロイセン王にスペイン王位に干渉しないよう求めます。

 

プロイセン王ヴィルヘルム1世はナポレオン3世の要求を拒否しますが、ビスマルクはこのエムス電報事件を誇張します。高圧的なフランスの要求をプロイセンが毅然として拒否したように情報を操作します。

S先生
S先生
ヴィルヘルム1世の「(王子がスペイン王の)立候補を断念したことを確認・承諾している」というフランス大使への伝言をビスマルクが「陛下はフランス大使を引見されることを拒否され、侍従を通してこれ以上何も言う事はないとフランス大使に伝えられた。」と誇張して発表しました。

 

A子さん
A子さん
怖っ!!ビスマルクの陰謀恐しすぎる!!

 

これにより両国の世論は一気に戦争へと傾きました。1870年に始まったプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)もプロイセンの優位のうちに進みます。ナポレオン3世がスダンの戦いで敗れて捕虜となると、戦いはプロイセン勝利で幕を閉じました。

 

フランス側の事情については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(19世紀のフランス)【近現代編その3】」に詳しく書いてますので、そちらも合わせてお読みください。

 

戦いに勝利したプロイセン軍はヴェルサイユ宮殿を占領します。ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式を実行します。ナポレオン3世が退位したのちに成立した臨時政府はプロイセンと講和条約を結びました。

S先生
S先生
異国の地のしかもシンボル的なベルサイユ宮殿で皇帝の即位式!!フランスからしたら屈辱的ですね

 

臨時政府はプロイセンに多額の賠償金を支払うことやアルザス・ロレーヌ両地方をプロイセンに割譲することを余儀なくされます。講和条約に反対したパリ市民はパリ=コミューンをつくって抵抗しますが、臨時政府とドイツ軍によって弾圧されます。

S先生
S先生
ちなみにこのアルザス・ロレーヌ地方は第一次世界大戦でドイツが大敗してフランスに戻ります。

 

1871年には、ヴィルヘルム一世を皇帝とするドイツ帝国を作り、ビスマルクは帝国宰相の地位につきます。そして、フランスを孤立化する狙いでオーストリア、イタリア、ロシアと同盟を結び、ビスマルク体制と呼ばれる国際安全保障体制を構築しました。

 

中世以来、統一国家を持たなかったイタリアとドイツは19世紀後半に統一を成し遂げます19世紀後半に明治維新を達成した日本も含め、この三国は遅れて成立した資本主義国だといえます。

20世紀に入ると、この3国は、すでに広大な植民地や領土を持っていたイギリス、フランス、アメリカなどと対立しました。

関連問題

まずは、早稲田大学の問題から出題します。

次の記述のうち誤りはどれか

  • ①プロイセンは1864年オーストリアと結んでデンマークとの戦争に勝利し、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国をデンマークから奪取した。
  • ②プロイセンは1866年、オーストリアとの戦争に勝利した結果、バイエルンやザクセンを糾合して北ドイツ連邦を成立させた
  • ③プロイセンは1870年に始まったフランスとの戦争に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世は1871年にヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の位についた
  • ④ドイツ帝国宰相に就任したビスマルクはオーストリア、イタリア、ロシアと同盟を結び、ビスマルク体制と呼ばれる国際安全保障体制を構築した。
    (早稲田大学2019年大問4より)

②普墺戦争が1866年で、オーストリアを除いた北ドイツ連邦ができたのは1867年のことです。また、ザクセンは北ドイツ連邦には加わっていません。

 

前回の話は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(19世紀のロシアと南下政策)【近現代編その4】」です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました