こんにちは。今回も「受験に役立つヨーロッパの歴史」シリーズをはじめます。今回は【アメリカ独立戦争】を取り上げます。
16世紀後半から17世紀にかけて、アメリカ大陸東岸にはイギリスの植民地が作られます。しかし、植民地の本国に対する不満が高まり独立戦争へとつながりました。今回は、大西洋革命一つでもあるアメリカ独立戦争について解説します。
アメリカ独立に関する大学入試問題は、アメリカ史の中で聞かれることが多いですが、昨年一年だけでも名古屋大学、慶應大学、聖心女子、早稲田、南山などそうそうたるところが問題にしています。実際に早稲田の問題をみてみましょう。
17世紀以降、東海岸部には13の植民地が成立した。ヨーロッパにおける( 1 )戦争とともに勃発したフレンチ=インディアン戦争で、イギリスが勝利してフランス勢力を排除するとイギリス本国政府は植民地に対する統制を強化して、砂糖法と( 2 )法を相次いで制定する。(中略)(a)(2)法に反対するためにイギリス製品の不買運動などを展開した。(中略)1773年末東海岸の港で( 3 )事件が勃発する。翌年、本国政府は同港封鎖などの抑圧的方策を講じるが、12の植民地代表は( 4 )に集まり第一回大陸会議を開催する。
問:(1)〜(4)までの適切な言葉を入れるとともに(a)の反対運動に使われたスローガンを答えよ。 ーー早稲田大政経第3問より一部修正
この記事の読了後にはアメリカ独立戦争の早稲田政経の問題も余裕で解けている事でしょう。しっかりと理解しながら読んでいきましょう。
今回のポイント・イギリス本国が制定した茶法に反対した植民地人がボストン茶会事件を起こした
・第一回大陸会議はフィラデルフィアで開かれた
・独立戦争はレキシントンの戦いで始まった
・独立戦争中に独立宣言が出された
・フランス、スペイン、オランダは植民地側に立って参戦した
・ロシアのエカチェリーナ2世は武装中立同盟を結成した
・アメリカはパリ条約で独立しミシシッピ川以東のルイジアナを得た
なお、前回のイギリスの話を読んでいないと話がわからないと思いますので「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(イギリス絶対王政と二つの革命)【近代編その4】」を読んでいない方は読んでください。
イギリス13州植民地の成立
(メイフラワー号:wikiより)
大航海時代の後半、イギリスは積極的にアメリカ大陸に進出しました。イギリスの北アメリカ植民地のうち最も古い植民地はヴァージニアでした。ヴァージニア植民地はイギリス国王から特許状を得たロンドンの会社がジェームズタウンを建設したことから始まります。
次いで、17世紀前半、イギリスではピューリタン(清教徒)が弾圧されます。弾圧から逃れるため、ピルグリム=ファーザーズなどのピューリタンはメイフラワー号に乗りアメリカ大陸のイギリスの植民地のニューイングランド植民地のプリマスに移住しました。
1664年の英蘭戦争でイギリスはオランダ人がニューアムステルダムとして植民地建設した場所をオランダから得て、ニューヨークと改名します。その後もイギリスはウィリアム王戦争やアン女王戦争に勝利し、新大陸での領土を広げました。
1755年から1763年のヨーロッパの七年戦争と同時期に起こったフレンチ=インディアン戦争(イギリスとフランスの戦い)で、イギリスはフランスからミシシッピ川東岸のルイジアナを手に入れます。この勝利によって、大西洋岸のイギリス植民地を脅かす外国勢力はなくなりました。
結果、イギリスが17世紀から18世紀に前半にかけて北アメリカ大西洋岸に設立した植民地の数は13にも登りました。なお、現在、アメリカ北東部にイギリス系アメリカ人が多いのは、当時イギリスの植民地が北東部に固まっていたのが原因です。
イギリス本国への不満
(ボストン茶会事件:wikiより)
フレンチ=インディアン戦争勝利後、イギリスは13州植民地に対する課税を強めます。増税の目的は戦争で使った費用を回収するためでした。1765年に制定された印紙法に対し植民地側は「代表なくして課税なし」と主張し。本国による増税に激しく抵抗します。
1773年、イギリス本国は茶法を制定。東インド会社が植民地で茶を独占的に販売できるようにします。これに反発した植民地の人々はボストン港にいた東インド会社の船を襲撃。積み荷の茶葉を海に投げ捨てるというボストン茶会事件を引き起こします。
イギリス本国はボストン港を鎖港して植民地に賠償を迫りました。植民地側はイギリスとの取引をボイコットするなどして抵抗します。
第一回大陸会議とパトリック=ヘンリの演説
(印紙法の制定に反対の演説を行うパトリック・ヘンリー:wikiより)
1774年9月、植民地の代表が当時の首都フィラデルフィアに集まり第一回大陸会議が開かれます。大陸会議といっても、一致団結して反英活動をしたわけではありません。大陸会議内には独立派だけではなく、本国寄りの王党派やどちらにも属さない中間派もいたからです。
第一回大陸会議では独立派が優勢となり、イギリスとの取引をしないことやイギリス製品を消費しないことなどを決めます。さらに、植民地側は大陸通商断絶同盟を結成。イギリスとの対決姿勢を強めました。
1775年3月、急進的な独立派のパトリック=ヘンリはヴァージニア州の議会で「我に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ」と演説。人々に武装蜂起を呼びかけます。
独立戦争の経緯
1775年4月、イギリス軍と植民地側民兵がレキシントンで衝突。アメリカ独立戦争が始まりました。5月に開かれた第二回大陸会議でワシントンが植民地軍の総司令官に任命されます。しかし、イギリス軍は強く、次第に植民地軍が劣勢になりました。
アメリカ独立戦争の年非難永(1775)うなるアメリカ独立戦争
1776年1月、植民地軍劣勢の中、トマス=ペインが『コモン=センス』を発表します。アメリカ独立の戦いは人間の権利にもとづく正義の戦いであり、独立を支持することこそが「コモン=センス」(良識)だと説きます。
1776年7月、大陸会議はジェファーソンが起草したアメリカ『独立宣言』を発表します。『独立宣言』には基本的人権や革命権、ジョージ3世の暴政を弾劾した内容でした。
そして、独立宣言の革命権などの思想は『統治二論(市民政府二論)』を著したイギリスの政治思想家ジョン=ロックから影響を受けていました。
しかし、アメリカ独立戦争では相変わらずイギリスが優勢で植民地軍が劣勢でした。1777年、植民地軍はサラトガの戦いで勝利。形勢が逆転し始めます。
1778年にはフランスが、1779年にスペインが、1780年にオランダが植民地側にたって参戦。イギリスが不利になります。さらに、ロシアのエカチェリーナ2世が武装中立同盟を提唱。イギリスは国際的に孤立しました。
独立の達成とパリ条約
(ヨークタウンのコーンウォリス将軍降伏:wikiより)
イギリス軍は植民地軍に止めをさそうとヨークタウンに進撃しました。ヨークタウン周辺の地理を熟知していたワシントンはイギリス軍を巧妙においつめ、ついに降伏させます。このヨークタウンの戦いが決定打となりイギリスは敗北を認めました。
1783年、イギリスと旧植民地のアメリカはパリ条約を結びます。イギリスはアメリカの独立を認め、ミシシッピ川以東のルイジアナをアメリカに割譲しました。
合衆国憲法の制定
(ジョージ=ワシントン:wikiより)
独立後のアメリカでは憲法制定に向けての話し合いが行われました。会議では強力な連邦政府を作るべきとする連邦派と各州の自治権を尊重するべきとする反連邦派が対立します。結局、「大いなる妥協」によって両者が歩み寄り、1787年に当時の首都フィラデルフィアで合衆国憲法が制定されました。
合衆国憲法では人民主権の原則や三権分立が定められます。また、各州には大幅な自治が認められました。しかし、連邦主義に基づき各州より強力な連邦政府が創設され、大統領が国防や外交を担当します。
1789年、初代アメリカ大統領にワシントンが就任します。アメリカ合衆国の歴史が本格的に始まります。また、財務長官はハミルトンで国務長官はジェファーソンという強力な布陣となりました。但し、後に二人は連邦派(フェデラリスト)のハミルトンと反連邦派(アンチフェデラリスト)のジェファーソンという形で対立する形になります。
お疲れ様でした。今回は以上となります。
冒頭の早稲田政経の問題の解答
冒頭の問題は分かりましたか?冒頭の問題の解答は以下の通りになります。分からない人は再度今回の記事を読んでみましょう。
1:7年、2:印紙 3:ボストン茶会 4:フィラデルフィア (a):代表なくして課税なし
今回はここまでです。お疲れ様でした。次回はついにナポレオンが登場します。お楽しみに。
「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランス革命とナポレオン)【近代編その6】」
前回の話はこちら
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