今回は三国干渉から日露戦争・韓国併合について解説します。
日露戦争に至るまでの流れ・日露戦争後に締結したポーツマス条約の内容・ハーグ密使事件などについても取り扱いました。
最後には語呂合わせや入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。
この記事からわかること
・三国干渉について
・日露戦争に至るまでの流れ
・中国分割における列強の主な租借地
・ポーツマス条約の内容
・韓国併合までの過程
三国干渉
(三国干渉(遼東還付条約):wikiより)
日清戦争に勝利したあと、日本は清とのあいだで下関条約を締結しました。
しかしこれに首を突っ込んできたのがロシアです。ロシアは、イギリス・フランスとともに、遼東半島を清に返還するよう日本に要求します。(三国干渉)日本はしぶしぶ了承せざるを得ませんでした。
三国干渉を契機として、国民のロシアに対する敵意が高まりました。「臥薪嘗胆」を合言葉にロシアにリベンジを誓います。
明治後期の政治
(山県有朋:wikiより)
第2次伊藤博文内閣のあとを継いだのは、第2次松方正義内閣です。当時進歩党の党首だった大隈重信を外相として迎え、手を組みました。
その後第3次伊藤博文内閣が成立します。しかし地租増徴案で土地の税金を増やそうとしたため、自由党・進歩党から反発を受けました。また自由党と進歩党はくっついて憲政党になります。
続いては初めての政党内閣であった、第1次大隈重信内閣です。ところがこの内閣はわずか4か月で退陣に追い込まれます。共和演説事件で尾崎行雄が文部大臣を辞任したことが発端となりました。後任をめぐって憲政党内で対立が起き、憲政党は憲政党と憲政本党に分裂します。
後を受けた第2次山県有朋内閣は、憲政党の支持を受けた政党内閣です。山県はまず地租増徴案を成立させます。続いて1899年に文官任用令を改正し、政党の力が官僚に及ばないようにしました。翌年には軍部大臣現役武官制を定めます。これにより軍部大臣には現役の軍人でないとなれないことになりました。さらに治安警察法を公布し、政治・労働運動の規制を強化したことも覚えておきましょう。
憲政党は当初山県を支持していましたが、次第に一連の政策に反発し始めます。憲政党は1900年に伊藤博文と手を組んで、立憲政友会を結成しました。第4次伊藤博文内閣が発足したものの、短命に終わります。
続いて桂太郎内閣が成立します。以降桂太郎と西園寺公望が交互にトップの座に就く桂園時代に突入しました。
中国分割
(北清事変(連合軍):wikiより)
日清戦争で清国の弱体ぶりが明らかになり、ヨーロッパの国々が清に押し寄せ、植民地にしてしまいます。これが中国分割です。
(列強の勢力範囲:オリジナル)
ところで上記の図にアメリカの名がありません。どうしてでしょうか?アメリカは、このときハワイ・フィリピンを併合するのに忙しかったからです。しかしアメリカはあとから自分たちも参加させるように願い始めます。(門戸開放宣言)
こうして欧州の列強が清国をどんどん植民地にしていくわけです。それに対抗して、扶清滅洋をスローガンに外国人排斥運動を行っていた団体・義和団が民衆を巻き込んで反乱を起こします。義和団事件です。
清国も義和団に同調して、列強に宣戦布告します。(北清事変)欧米諸国や日本は、8カ国連合軍を結成してこれを鎮圧しました。清国は、北京議定書で謝罪します。
日露戦争
(ポーツマス条約:wikiより)
この北清事変をきっかけにロシアが満州を占領します。ロシアの南下を脅威に感じた日本では、満韓交換論が叫ばれるようになりました。満韓交換論とは、満州をロシアに与える代わりに日本は韓国をもらいますよ、という考えです。
しかし日本はロシアとの協調ではなく、イギリスと同盟を組んでロシアと戦う道を選びます。1902年、日英同盟締結です。内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦らは、非戦論・反戦論を唱えたものの、対露同志会などは開戦を主張します。
いよいよ日露戦争が始まります。日本はアメリカ・イギリスの経済的支援を受け、戦局を有利に進めました。旅順陥落・奉天占領・日本海海戦で、日本はほぼ勝利を収めます。
しかし多額の戦費で日本の国力は限界に達し、ロシアも革命運動により国内で混乱が生じたため戦争を続けるのが困難になりました。
そこでアメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領が仲介役となってポーツマス条約を締結します。1905年のことです。日本全権は小村寿太郎・ロシア全権はヴィッテでした。
日本が得た権利は以下の通りです。
Ⅰ 北緯50度より南の樺太
Ⅱ 沿海州・カムチャツカ漁業権
Ⅲ 長春よりも南の鉄道
Ⅳ 韓国に対する日本の指導・監督権
Ⅴ 旅順・大連租借
日本は戦争に勝利したものの、賠償金を得られなかったため、不満を爆発させた人が暴動を起こしました。これを日比谷焼打ち事件といいます。
韓国併合
(日露戦争(進軍中の日本兵):wikiより)
日露戦争中に、日英同盟を改定するとともに、アメリカとのあいだで桂・タフト協定(1905)を締結します。これにより、イギリス・アメリカに韓国の保護国化を認めてもらうことに成功しました。同年に第二次日韓協約を結んで韓国の外交権を奪い、漢城に統監府を置きます。
保護国化された韓国の皇帝・高宗は、1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、日本の対応に抗議をしたものの、列国から無視されました。ハーグ密使事件です。
なぜ無視されたのでしょうか?
それはアメリカもイギリスも韓国の保護国化を認めているからです。
この事件の後、高宗を退位させ、第三次日韓協約を結んで韓国の内政権をも手に入れました。
さらに伊藤博文が満州で韓国の民族運動家・安重根に暗殺された事件をきっかけに日本は韓国を植民地化します。これが韓国併合(1910)です。漢城を京城と改称し、朝鮮総督府を設置するとともに国名を韓国から朝鮮に変えます。
また日本は満州に関東都督府を置いて満州の管理を行いました。また満州の支配権をほしがっていたアメリカに対抗しようと、日英同盟改定・日露協約により満州での実権を認めさせます。
今回の範囲はここまでです。続いて語呂合わせ・入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。
語呂合わせ
ここでは今回登場した重要なキーワードにまつわる語呂合わせを紹介しています。年号の暗記にお役立てください。
入試問題にチャレンジ
下線部ⓑ(日露戦争)に関連して、日露戦争後の外交について述べた文として正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
①日本は、韓国の外交権を奪ったほか、漢城に統監府をおいて、伊藤博文がその初代統監となった。
②日本を中心とする列国の軍隊によって、清国内の民衆反乱が鎮圧され、北京議定書が結ばれた。
③日本は、軍艦を江華島付近に派遣して朝鮮を挑発し、これを機に開国させた。
④日本は、韓国での権益を確保するために、ロシアと協調する外交路線ではなく、イギリスと同盟を結ぶ路線を選んだ。
まとめ
日英同盟でイギリスを味方につけ、ロシアと戦う道を選んだことが、日露戦争へとつながりました。
また日英同盟の改定及び桂・タフト協定の締結で、英米に韓国保護国化を認めてもらえたことで、韓国を併合することができたわけです。この部分をしっかり理解しておいてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「日清戦争とは?原因・結果を簡単にわかりやすく解説【日本史第68回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「明治時代の産業についてわかりやすく解説【日本史第70回】」
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