今回は倒幕運動について一連の流れを解説します。
具体的には、安藤信正が推進した公武合体運動から、大政奉還・王政復古の大号令まで、討幕へと至ったプロセスをわかりやすく解説します。
最後には語呂合わせや入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。
この記事からわかること
・公武合体とは何か?
・薩長同盟を結ぶまでの経緯
・幕府滅亡への過程
公武合体
(安藤信正:wikiより)
1860年の桜田門外の変で井伊直弼が一橋派に暗殺される事件が起きたことを受け、幕府は井伊の二の舞を避けるために、公武合体の政策をとりました。
公武合体とは、公家(公)と武士(武)の合体、つまり朝廷と幕府が一体となって強い日本を作ることを目指す考え方です。当時の老中・安藤信正が推進しました。
公武合体運動の一環として、和宮降嫁が行われます。これは朝廷と幕府がお近づきになった印として、孝明天皇が妹・和宮を将軍家茂に嫁がせたことを指します。
しかし和宮降嫁に反対する人たちがいました。公武合体に反対している尊王攘夷派です。彼らは安藤信正を襲撃して切りつける事件(坂下門外の変)を起こします。
結局安藤信正は、命こそ助かったものの、事件を受けて失脚してしまいました。
薩摩藩と長州藩の動向
それでは、次に薩摩藩と長州藩について述べていきます。
薩摩藩
(島津久光:wikiより)
安藤信正の失脚後、薩摩藩の島津久光を中心に公武合体運動が進められます。
また島津久光は勅使(天皇が派遣する使者)とともに江戸へ向かい、幕政改革を要求しました。
幕府は彼らに押される形で要求をのみ、政事総裁職・京都守護職の設置や、西洋式軍制の採用を行いました。この一連の改革を文久の改革といいます。
しかしここである事件が起きます。生麦事件(1862年)です。江戸から帰る途中だった島津久光の行列を横切ったイギリス人を、薩摩藩士が殺害したのです。
イギリス人も黙ってみているわけがありません。
翌1863年の薩英戦争で、容赦なく仕返しをしました。
ここで薩摩藩は攘夷が不可能だと知ります。また戦争の結果、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士たちが台頭して藩政を掌握していくことになりました。
長州藩
長州藩の考え方は尊王攘夷、つまり天皇を中心にして(尊王)外国を追い出そうとする(攘夷)考え方です。
当時京都には長州藩を中心に、尊王攘夷派が多数いました。これは公武合体を進めたい幕府にとっては都合が悪いわけです。
なぜでしょうか?朝廷(天皇)と幕府の融和を図る公武合体と、天皇を中心と考える尊王攘夷は相容れない思想だからです。
どうにかして京都から尊王攘夷派を追い出したい公武合体派は、八月十八日の政変(1863年)により、長州藩や急進派の公家・三条実美らを追放します。追い討ちをかけるように池田屋事件で、新選組が京都にまだ残っていた尊王攘夷派を殺害しました。
負けじと長州藩も1864年の禁門の変で、京都に攻め上がります。しかし長州藩は敗北し、第一次長州征討で幕府による手痛いお仕置きを受けました。
さらに長州藩が1863年に下関海峡を通る外国船を砲撃したことへの報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊は長州を砲撃します。これが四国艦隊下関砲撃事件です。
こうして長州藩は瞬く間に弱体化し、薩摩藩と同様に下級武士たちが実権を握ることになります。その中心が高杉晋作です。
高杉たちは戦争での惨敗を受けて、攘夷は限界だと悟ります。そうすると残るのは尊王です。尊王を実現するうえで邪魔になるのは何でしょうか?幕府です。そういうわけで長州藩は攘夷を諦め、討幕へとシフトチェンジしていきます。
薩長同盟
(坂本龍馬:wikiより)
薩摩・長州の共通点は、下級武士が実権を握っていることです。下級武士は一人では当然力がありません。そこで土佐藩の坂本龍馬は考えました。
「そうだ、同盟を組もう。」
というわけで土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介により、薩長同盟が成立しました。1866年のことです。
同じ年15代将軍慶喜が就任すると、早速幕府は第一次長州征討の後始末を巡って長州藩と対立します。
幕府は第二次長州征討を宣言し、長州藩を厳しく処罰しようとしました。しかし薩摩藩は長州藩を支持します。薩長同盟があるからです。
結局薩摩藩と幕府は決裂し、薩摩藩は反幕府の態度を固めました。
ここからいよいよ討幕へと向かっていきます。
幕府の滅亡
(徳川慶喜:wikiより)
1867年10月14日、薩長両藩は岩倉具視と組んで明治天皇に討幕の密勅(幕府を倒せという命令)を出させます。
しかしこれに対して、坂本龍馬ら公武合体派は反対しました。
なぜでしょうか?幕府を倒せば幕府側の人間は新しくできた政府に不満を持ちます。そうなると戦いが起きて、日本の近代化が遅れてしまうと考えたからです。
討幕における戦いを避けるため、坂本龍馬と後藤象二郎らは先んじて、前土佐藩主山内豊信を使って徳川慶喜に大政奉還を勧めます。討幕の密勅が出たのと同じ10月14日のことです。
幕府を倒そうとしたのに、幕府がなくなってしまってはどうしようもありません。
そこで朝廷側は12月9日に王政復古の大号令を発して、天皇中心の新政権樹立を宣言します。ここでついに江戸幕府滅亡となるわけです。新政府は幕府・摂政・関白を廃止して、新たに総裁・議定・参与の三職を設置します。
また同じ12月9日の小御所会議では、慶喜に内大臣の辞退と領地の一部返上(辞官納地)を命じました。これに反発した慶喜は、大坂城に立てこもってしまいます。
そして戊辰戦争へと向かっていくことになります。
今回の範囲はここまでです。続いて語呂合わせ・入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。
語呂合わせ
ここでは幕末期に起きた出来事に関する語呂合わせを紹介しています。年号の暗記にお役立てください。
生麦事件:いや~むつ(1862)かしい生麦事件
薩英戦争:人は無残(ひとはむざん→1863)な薩英戦争
四国艦隊下関砲撃事件:人は無視(ひとはむし→1864)する下関砲撃
王政復古の大号令:いや(18)むな(67)しいな、王政復古の大号令
入試問題にチャレンジ
下線部ⓐに関連して述べた次の文X・Yについて、 その正誤の組合せとして正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。
X 井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得て、 開国に踏み切った。
Y 安藤信正は、 朝廷との融和をはかる公武合体に反対し、老中を辞職した。
① X 正 Y 正 ② X 正 Y 誤
③ X 誤 Y 正 ④ X 誤 Y 誤
まとめ
今回は討幕運動の展開について見てまいりました。
公武合体・薩長同盟・王政復古の大号令など、覚えなければならない重要な用語がたくさん出てきましたが、流れを把握しながら覚えると自然と知識が増えるので、ぜひ試してみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「幕末の外交についてわかりやすく解説(ペリー来航など)【日本史第60回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「明治維新(五箇条の御誓文・廃藩置県・殖産興業など)について解説【日本史第62回】」
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