推古天皇が亡くなると、蘇我氏の力がそれまで以上に強くなりました。
皇極天皇の子である中大兄皇子は中臣鎌足とともに蘇我氏打倒を企て、これに成功します。
蘇我氏を滅ぼした後に即位した孝徳天皇は中大兄皇子らに補佐され、都の場所を飛鳥から難波に移し、新しい政治を始めました(大化の改新)。
今回は大化の改新の背景や内容、覚え方についてわかりやすく解説します。
- 蘇我入鹿は古人大兄王を即位させるため、山背大兄王の一族を滅ぼした
- 蘇我氏の専横に危機感を抱いた中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏打倒を計画
- 645年、乙巳の変で中大兄皇子らは蘇我氏を滅ぼした
- 乙巳の変後、皇極天皇が退位し孝徳天皇が即位。都を難波に移した
- 孝徳天皇の下、中大兄皇子らが行った一連の改革が大化の改新
- 改新の目標を書いたとされたのが改新の詔
大化の改新の背景をわかりやすく解説
(石舞台古墳:wikiより)
蘇我馬子の死後、蘇我氏の跡を継いだ蘇我蝦夷は着々と蘇我氏の勢力を拡大しました。蝦夷の引退後に大臣の位についたのは蘇我入鹿です。
蘇我入鹿は遣隋使となった僧侶旻(みん)の学問堂で学びました。入鹿は学問所に通う学生の中でも抜きんでるほどの秀才です。父の蝦夷からも大きな期待をかけられていたことでしょう。
蘇我入鹿は古人大兄王を皇極天皇の次に天皇の位につけようと考えました。そのためには、同じ皇族で聖徳太子の子である山背大兄王の存在が邪魔です。
643年、蘇我入鹿は聖徳太子の子である山背大兄王を攻め、山背大兄王の一族を自害に追い込み滅ぼしました。また、甘樫丘に築いた蘇我氏の邸宅を「上の宮門」とよばせるなど、天皇家を上回る権威を見せつけるようになります。
蘇我入鹿が皇族を滅ぼし、天皇家よりも力を強めることを警戒したのが皇極天皇の子である中大兄皇子です。中大兄皇子は同じく蘇我氏を強く警戒していた中臣鎌足とともに蘇我氏打倒のチャンスをうかがいます。
中大兄皇子や中臣鎌足は、いつ、どの場所で蘇我氏を打倒したのか
(南淵請安の墓)
中大兄皇子と中臣鎌足は法興寺の打毬で出会いました。これが縁となり、二人は南淵請安の塾に学ぶ通塾路で蘇我氏打倒の計画を立てたといいます。
645年、新羅・百済・高句麗の使節が日本にやってきます。中大兄皇子と中臣鎌足は、使節を迎える儀式の場で蘇我入鹿を暗殺しようと考えました。儀式の場では、蘇我入鹿といえども丸腰になるからです。
儀式がはじまると、中大兄皇子の部下が蘇我入鹿に襲い掛かる手はずでしたが、まったくその動きがありません。部下が怖気づいたことを悟った中大兄皇子は自ら蘇我入鹿に切りつけ、討ち取りました。これを、乙巳の変といいます。
(乙巳の変:wikiより)
入鹿の死を知った父の蝦夷は蘇我氏の館に火を放ち、自ら命を絶ちました。この時、『天皇記』や『国記』は失われそうになります。しかし、『国記』は焼失を免れ後世に残されました。
(蘇我入鹿首塚)
孝徳天皇時代に始まった大化の改新の覚え方
(難波宮:wikiより)
乙巳の変後、皇極天皇が退位し、孝徳天皇が即位しました。孝徳天皇の下で進められた一連の改革を大化の改新といいます。大化の改新の進む道を書いたのが改新の詔だと考えるとよいでしょう。
大火の改新は、中央集権を目指した改革だと覚えましょう。その代表が土地と人民の支配権を天皇のもとに集めた公地公民です。改革の中心人物は中大兄皇子でした。
氏姓制度の時代は、各豪族が私有地を持ち、部曲を支配していましたが、それらを天皇が直接支配することを目指しました。天皇(朝廷)は6歳以上の男女に口分田を与え、彼らから税をとる仕組みを作ります。
公地公民制度を実現するためには、人民の正確なデータが必要でした。そのため、改新の詔でも戸籍や計帳の作成がうたわれます。
まとめ
蘇我氏の権力が強まり、皇族である山背大兄王が蘇我入鹿によって滅ぼされると、中大兄皇子や中臣鎌足が蘇我氏の権力拡大を警戒します。
645年、中大兄皇子らは乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしました。その後、皇極天皇は退位し、孝徳天皇が即位。中大兄皇子を中心とする大化の改新が始まります。
大化の改新の基本方針を示したのが改新の詔でした。以後、改新の詔の内容に沿って改革が進められます。
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