院政とは、天皇を退位した上皇が院で行う政治です。院政がはじまると政治の権力は藤原摂関家から上皇に移りました。
鳥羽上皇の死後、最高権力者である治天の君の座をめぐって崇徳上皇と後鳥羽上皇が争う保元の乱が起きます。勝利したのは後白河天皇でした。その後、後白河天皇の院近臣同士で対立が起き、これに源平対立が合わさって起きたのが平治の乱です。
平氏政権とは、平治の乱で勝利した平清盛が作り上げた政権です。清盛は最高官職の太政大臣まで上り詰め、娘は天皇家に嫁ぎ、天皇家の外戚となります。
今回は院政と平氏政権についてまとめます。
・院政を始めたのは白河上皇
・院、院宣、院庁、院近臣、知行国など院に関する歴史用語は入試必出
・院政の開始で摂関政治は衰えた
・院政がはじまると全国の荘園は院に集中した
・保元の乱・平治の乱は貴族の争いを武士の力で解決した代表例
・平治の乱に勝利した平清盛は平氏政権を樹立
・平氏政権の財源は知行国、荘園、日宋貿易の3点セット
院政 と は
(六勝寺)
「院政」のはじまり
院政の始まりは11世紀中ごろの後三条天皇の時代にさかのぼります。摂関家を外戚としない後三条天皇は延久の荘園整理令や記録荘園券契所の設置などにより摂関家に打撃を与えます。
1072年、後三条天皇は20歳になっていた息子の白河天皇位を譲り上皇となります。後三条天皇は院政を目指していたかもしれませんが、実行する前に亡くなってしまいました。
1086年、白河天皇は息子の堀河天皇に位を譲り上皇となります。そして、幼い堀河天皇を後見するという名目で朝廷の実権を握りました。院政のしくみが整えられるのは白河上皇の時代です。
院政とは、上皇が「院」で行う政治のことです。上皇とは、天皇を辞めたもと天皇のことであり、「院」とは上皇が住む住居のことです。
上皇は天皇や朝廷に対し「院宣」とよばれる命令を下します。天皇や朝廷は院宣にもとづき政策を実行しました。院が政策を実行するためにもうけた院専用の役所のことを「院庁」といいます。
上皇の周囲には国司を歴任し豊かになった受領(任地に赴く国司の最上位者)や上皇の乳母の一族などがあつまり権力を握りました。彼らのことを「院近臣」といいます。
白河上皇が作り上げた院政のしくみは鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇へと引き継がれました。
白河上皇が「院政」を始めた理由
白河上皇が「院政」を始めた理由は、法に縛られない立場を手に入れるためでした。天皇は律令によって縛られた存在であり、律令のノウハウを熟知していたのは藤原不比等を祖先に持つ藤原氏です。
かつて、摂関家の支配から逃れようとした三条天皇は藤原道長と対立した挙句、失明を理由に退位に追い込まれました。藤原氏としては意に沿わない天皇を退位し、藤原氏と血がつながっている別の人物を天皇に立てればよいからです。
こうした干渉を防ぐには、天皇よりも上の存在となり法に縛られない状態になるのがもっともよい方法です。こうして、最終決定権が藤原氏の支配する朝廷や藤原氏が影響を与えやすい天皇から、藤原氏の手が届かない上皇へとうつりました
院政のメリットとは
院政最大のメリットは、これまで摂関家に集中していた荘園が院に寄進され、院の経済力が強化されることです。
院政が始まり、最終決定権を持つのが天皇ではなく上皇であるということが知れ渡ると荘園の所有者は争って院に荘園を寄進するようになりました。国司に任命してもらうために荘園を寄進する成功の寄進先が院になったというわけです。
また、諸国の荘園領主や開発領主は国司による税の収奪を逃れるため、院に荘園を寄進しました。このようにして、院は莫大な富を築き上げ、摂関家の力は衰えます。
平氏政権の栄華と凋落
(厳島神社:wikiより)
桓武平氏の一派である伊勢平氏は、院政と結びつくことで成長しました。平正盛は白河上皇の北面の武士として仕え、院の武力の一端を担います。
正盛の子の忠盛は鳥羽上皇の信任を得て西国の国司を歴任します。その結果、瀬戸内海を中心に平氏の力を伸ばしました。
鳥羽上皇が亡くなると治天の君(最高権力者のこと)の座をめぐって崇徳上皇と後白河天皇が対立します。両者の争いに摂関家の争いも加わって騒乱は拡大します。さらに、両者が武士を動員したことで1156年に戦争となりました。これが保元の乱です。
保元の乱に勝利したのは後白河天皇でした。崇徳上皇に味方した勢力、特に一族の過半が崇徳上皇についた源氏は大きなダメージを受けます。保元の乱は貴族同士の争いも武士の力で解決できると示しました。
1159年、今度は後白河上皇の院近臣の間で権力争いが起きます。これに、源氏と平氏の争いが加わり騒乱が拡大します。権力争いは信西の殺害をきっかけに内乱となりました。これが平治の乱です。
平治の乱で勝利したのは平清盛です。反対に、源氏は勢力を大きく弱めました。保元の乱と平治の乱に勝利した平清盛は権力基盤を固めるのに成功します。
平清盛の大出世と平氏政権の樹立
平治の乱で勝利した平清盛は蓮華王院(三十三間堂)を後白河上皇に寄進するなど、後白河上皇との関係を強めました。
1167年、平清盛は最高の官職である太政大臣に就任します。加えて平氏一門が次々と高位高官を独占しました。こうして、平清盛を中心とする平氏政権が樹立されます。
清盛の次の目標は自分の娘を天皇に嫁がせ、その子の外戚として政権を握り続けることです。このやり方は藤原氏の摂関政治と同じですね。
1172年、清盛の娘である徳子が高倉天皇の中宮となりました。その後、徳子が生んだ安徳天皇が即位します。位人臣を極め、かつての摂関政治のように天皇家の外戚となった平氏は絶頂の時を迎えました。
強大な武力を背景に、強い経済力と天皇家との結びつき、全国各地の荘園支配など平氏政権は盤石であるかに見えました。
平氏政権の経済的基盤
平氏政権の経済的基盤は3つあります。1つ目は朝廷から与えられた知行国です。知行国とは、上級貴族にだけ与えられたもので国司の任命権やその国の公領から上がる収益を得ることができました。最盛期で平氏は30カ国もの知行国を持ちます。
(平氏の国司任官)
2つ目は全国各地にある荘園です。平氏が権力を握ると地方の有力者はこぞって平氏に荘園を寄進しました。これにより平氏が所有する荘園は500か所に及びました。これは院や藤原氏に匹敵するものです。
3つ目は日宋貿易です。平清盛は現在の神戸港にあたる大輪田泊を修築し日宋貿易の拠点としました。日宋貿易の輸入品は宋銭や絹織物、陶磁器などです。輸出品は金や水銀、刀剣などでした。
特に宋銭は日本経済に大きな影響を与えます。鎌倉時代や室町時代に貨幣経済が発達した理由の一つは日宋貿易で宋銭が大量に持ち込まれたからでした。
鹿ケ谷の陰謀
権力や財力が平氏に集中すると、平氏に対する反感も強まります。平氏に反対する勢力は平氏の勢力拡大を恐れ始めた後白河法皇に接近します。
また、これまで清盛と後白河法皇の仲立ちをしていた建春門院(平滋子:高倉天皇の母)が死去したことで二人の間に溝が広がります。
1177年、鹿ケ谷にあった俊寛の山荘で平氏打倒の計画が企てられているとの密告が清盛のもとに届きます。清盛は鹿ケ谷山荘にいた院近臣を捕らえ死罪や流罪とします。この陰謀は清盛の策略という説もありますが定かではありません。
後白河院との関係悪化
鹿ケ谷の陰謀後、清盛と後白河法皇の関係は悪化の一途をたどりました。
後白河法皇は平清盛の子の重盛が死去した時、清盛の相談なく重盛の知行国を没収します。こうした後白河法皇の態度の変化は清盛を怒らせました。
後白河法皇の院政停止
1179年、平清盛は軍勢を率いて京都に入ります。入京した清盛は反平氏とされた公卿や院近臣を全て解任します。かわって、平氏と親しい公卿らを高位高官につけました。
後白河法皇は清盛の武力を恐れ、対話を試みますが、清盛は後白河法皇との関係改善に応じません。そればかりか、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し後白河法皇の院政を停止しました。これを治承三年の政変といいます。
清盛は高倉天皇を中心とする政治体制を整え、後継者とした平宗盛に一任しようとします。しかし、宗盛らは政治経験が浅く事態をうまく収拾できません。そこでやむなく清盛が事態を収拾しました。
その後、高倉天皇は清盛の孫である安徳天皇に譲位し高倉上皇の院政が始まります。とはいっても、実際に権限を握っているのは外戚の清盛でした。
逆らうものは法皇であろうとも幽閉する清盛の政治姿勢は周囲の反発を買い、源平合戦へとつながりました。
まとめ
藤原氏の摂関政治から政治の力を取り戻すため、白河上皇は院政を始めました。院政がはじまると諸国の荘園は院に寄進されるようになります。
白河上皇が作り上げた院政のシステムは鳥羽上皇に引き継がれました。鳥羽上皇の死後、最高権力者の座をめぐって崇徳上皇と後白河天皇が争います。これが保元の乱です。
保元の乱は後白河天皇側の勝利に終わります。保元の乱の3年後、今度は後白河上皇の院近臣の間で争いが起きました。平治の乱です。平治の乱に勝利した平清盛は太政大臣にのぼりつめ、平氏政権を樹立します。
院政は院政独特の用語や院政の流れ、平氏と上皇の結びつき、平氏政権の内容や日宋貿易など入試でも頻出の場所です。流れをしっかりとらえ、整序問題にも対応できるようにしましょう。
前回の記事「平将門の乱・藤原純友の乱など武士の成長について解説(問題演習つき)【日本史 第20回】」
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