聖徳太子や天智天皇・天武天皇・持統天皇が共通で目指した目標があります。
それは、日本で律令を取り入れた政治を行うことでした。聖徳太子や天皇たちが目指した律令を形にしたのが「大宝律令」ですね。奈良時代の政治は律令にのっとって行われました。
701年に制定された大宝律令の内容はどのようなものだったのでしょうか。
また、大宝律令編纂に藤原氏はどのようにかかわったのでしょうか。また、受験で必要な大宝律令の語呂合わせもあわせて、紹介します。
- 文武天皇時代に大宝律令が701年に制定された。
- 律とは刑法、令とは行政法にちかいものだった
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大宝律令とは?大宝律令はどの天皇の時代にできたの?
(文武天皇:wikiより)
大宝律令は、701年に制定されました。制定されたときの天皇は文武天皇です。
文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫ですね。祖母である持統天皇がつくらせた藤原京で大宝律令は公布されました。
大宝律令制定に活躍したのは刑部親王と藤原鎌足の子の藤原不比等でした。藤原不比等は、のちの養老律令でも中心人物となります。
大宝律令がそもそもできた理由
大宝律令が作られた理由は、日本に中国式の律令を導入したかったからです。
聖徳太子の時代、日本(当時は倭国)は中国文化を取り入れ、天皇中心の国づくりを進めました。乙巳の変で蘇我氏を打倒した中大兄皇子(天智天皇)も、天皇中心の国づくりを進めます。
672年、壬申の乱に勝利した天武天皇は本格的に律令導入を図ります。
天武天皇は飛鳥浄御原令の作成を命じます。686年に天武天皇は亡くなりますが、あとを継いだ持統天皇が飛鳥浄御原令の作成を継続、689年に飛鳥浄御原令は完成・施行されました。
しかし、この段階で完成したのは令だけでした。中国のように律と令を完備したものではありません。
そこで、完全な律令を導入するため、大宝律令の作成が決まりました。
ちなみに古代日本の律令制における、広域地方行政区画を畿内七道(きないしちどう)といいます。下図を参照してください。
(五畿七道:wikiより)
大宝律令の内容とは?
(朱雀門:wikiより)
律令は、もともと中国で作られた法典です。律令は様々な法律の集合体でした。
中国の律令をまねした日本の大宝律令も、様々な法律の集合体です。国の仕組みや政治の行い方、税制、土地制度、軍事制度など国の政治に関するありとあらゆることが定められます。
大宝律令導入以前、日本は独自の仕組みで政治を行っていました。しかし、大宝律令完成後は、中国式の律令に基づく国の仕組みを採用。以後の日本を律令国家といいます。
大宝律令の律とは?
律令の律とは、刑法のことです。
刑法とは、どんなことが犯罪となり、どの犯罪を犯すと、どんな刑罰が与えられるかについて書かれた法律のことですね。
律の中には、八つの重大犯罪である八虐(主に天皇や国、父母などの尊属に対する犯罪)や五つの刑罰を定めた五罪があります。
大宝律令の令とは?
律令の令とは、行政法のことです。
主に国の仕組みについて書かれた法律ととらえればよいでしょう。
令の中では、政府の役職と位階の関係を定めた官位相当制や地方行政官のランクを定めた四等官制、官吏の給与や口分田などの土地制度など、当時の政治の仕組みが定められました。
大宝律令の語呂合わせ
(平城宮:wikiより)
大宝律令の語呂合わせとしては、
例えば
- 「大宝律令 なお 一層(701) 大宝律令完成 」
- 「なおいい(701)国に、大宝律令」
などがあります。
大宝律令のまとめ
701年に制定された大宝律令は、聖徳太子や天智天皇、天武天皇、持統天皇らが目指した中央集権の律令国家の総仕上げとなる法律でした。
文武天皇の時代に発布された大宝律令は、刑法である律と行政法である令が含まれます。
中国伝来の律令を日本風にアレンジし、制定・施行にこぎつけたのは刑部親王と藤原不比等でした。藤原不比等は、その後に作られた養老律令の編纂にもかかわります。
大宝律令で定められた政治の仕組みに基づき、奈良時代の政治が行われました。
大宝律令のオススメ語呂合わせは二つ。「大宝律令 なお 一層(701) 大宝律令完成 」や「なおいい(701)国に、大宝律令」です。
前回の記事「天武天皇から持統天皇までを一気に解説!」
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