こんにちは。今回も受験生に役立つヨーロッパの歴史近現代編を始めます。
前回は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イタリア・ドイツの統一)【近現代編その5】」を取り上げました。
そして、今回のシリーズ第6回は【アメリカ南北戦争】を取り上げます。アメリカについては以前「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(アメリカ独立戦争)【近代編その5】」でアメリカ独立戦争について記載していました。みていない人はこちらを先に読んでください。
19世紀に領土を西へと拡大させたアメリカ合衆国では連邦政府の在り方や外交、経済、奴隷制度など様々な点で南部と北部の対立が深まりました。南北戦争では大きな被害が出ましたが、アメリカ合衆国の統一は維持されます。
今回の記事のポイント・アメリカの領土拡大は地図で確認しましょう
・西部開拓の合言葉は「明白な天命(マニフェスト・ディスティニー)
・南部と北部の対立点は表を使ってしっかり整理
・リンカンのキーワードはホームステッド法、奴隷解放宣言、ゲティスバーグの演説
・大陸横断鉄道の開通は南北戦争後なので順番に注意
アメリカ合衆国の拡大
(米英戦争:wikiより)
1783年、独立戦争で勝利したアメリカ合衆国はパリ条約を結びイギリスから独立を果たします。その時、アメリカはイギリスからミシシッピ以東のルイジアナを得ました。以後、アメリカは領土を徐々に拡大します。
1803年、3代大統領のジェファソンの時代にミシシッピ以西のルイジアナをフランスから買収することで領土を西に広げました。
ヨーロッパでフランス革命が始まると、アメリカは中立を宣言します。1812年、アメリカはイギリスがアメリカとヨーロッパの貿易を妨げているとしてイギリスに宣戦布告。米英戦争が始まりました。米英戦争はナポレオンの没落まで続きます。
また、第5代大統領モンローの時代にスペインからフロリダを買収しました。モンローは、ヨーロッパに介入しない代わりにヨーロッパからのアメリカ介入を拒否するとするモンロー教書を発表し孤立主義の立場をとります。
1845年、メキシコ領テキサスに入植したアメリカ系住民の要求にこたえてテキサスを併合します。さらに1846年におきた米墨戦争に勝利したアメリカはカリフォルニアを併合します。これで、アメリカの領土は太平洋沿岸にまで達しました。
西漸運動とマニフェスト=ディスティニー
(マニフェストディスティニー:wikiより)
領土が拡大したアメリカでは「明白な天命」(マニフェスト=ディスティニー)ということばが広く流布しました。アメリカの領土拡大と西部開拓は神から与えられた使命であるとする考え方です。
この考え方に従いアメリカ人たちは西部開拓を進め西部に移住する西漸運動を行いました。先住民族であるインディアンと戦いながら、アメリカの白人たちは西部のフロンティアを開拓します。
白人に敗れ土地を失ったインディアンはアメリカ南西部の居留地に強制的に移住させられました。特にチェロキー族の強制移住は「涙の旅路」とよばれます。
アメリカ人の西部開拓は1848年にカリフォルニアで金が見つかったというニュースが伝わると、アメリカ各地から人々がカリフォルニアに押し寄せます。このことをゴールドラッシュといいました。
南北の対立
(アンクルトムの小屋:wikiより)
19世紀後半に入ると、アメリカの南部と北部と対立が深まりつつありました。商工業を中心とする北部は奴隷制に反対し、国内産業を育てるための保護貿易を主張しました。また、強い連邦政府を支持します。
一方、綿花の輸出に頼る南部は農業中心でイギリスなどの綿花を必要としている国と自由に貿易したいと考えます。大農園を維持するには奴隷制のプランテーションは必要。そのため、奴隷制に賛成します。また、州の自治を重視する州権主義の考えを主張します。
奴隷をめぐっては1820年にミズーリ協定が結ばれていました。この協定では北緯36度30分以北には奴隷州を認めないと定めます。
ところが、1854年にできたカンザス・ネブラスカ法では自由州とするか奴隷州とするかは住民の意志に任せるとされ、ミズーリ協定が破棄されてしまいます。この状況に危機感を持った奴隷制反対論者は1854年に共和党を結成しました。
南北戦争の始まり
(リンカーン:wikiより)
1861年、奴隷制反対を主張していた共和党から出馬したリンカンが大統領選挙に勝利しました。南部諸州は選挙結果に納得せず、ジェファソン=デヴィスを大統領とするアメリカ連合国を建国し独立を宣言します。
アメリカ合衆国の維持を考えるリンカンは南部との対決を決意します。ここに、アメリカ史上最大の内戦である南北戦争が始まりました。
戦いは南部の優秀な将軍の活躍もあり、一進一退を繰り返しました。リンカンは西部諸州を味方にするためホームステッド法を制定します。ミシシッピ川以西に一家で移住し5年間定住した場合は160エーカーの土地を与えるとした法律でした。
開拓により無償で土地が手に入るホームステッド法の制定で西部諸州は一気にリンカン支持へと傾きました。
1863年、南軍と北軍はゲティスバーグで激突。この戦いで北軍が勝利し戦局は北軍優位へと傾きました。戦闘後、ゲティスバーグを訪れたリンカンはゲティスバーグの演説で「人民の、人民による、人民のための政治」を訴えます。
また、リンカンはイギリスなどが南北戦争に介入できなくなるよう、奴隷解放宣言を発表し戦争の大義名分を明らかにしました。イギリスは国内の奴隷制反対の声を重視し、南北戦争への介入を控えます。
1865年、北軍は南部の首都であるリッチモンドを制圧。南軍のリー将軍を降伏させ戦争を終結させました。
南北戦争後のアメリカ
(大陸横断鉄道開通式:wikiより)
1865年、南北戦争を勝利に導いたリンカンは暗殺されてしまいました。しかし、戦争を終わらせたアメリカは持っている力を経済成長へと振り向けます。
1867年にロシアからアラスカを購入し領土を拡大。1869年には大陸横断鉄道を開通させ、大陸の東西にわたる大動脈を作り上げます。ちなみに、大陸横断鉄道開通の労働力として活躍したのが中国系移民でした。
大陸横断鉄道の開通により西部開拓は一気に進みます。1890年、フロンティアの消滅宣言がなされ西部開拓が終わりました。以後、アメリカは海外に積極的に進出します。
今回のまとめ
19世紀、アメリカは西へと拡大する時代でした。インディアンとの戦いを制し領土を拡大したアメリカですが、南部と北部の対立が激しくなり南北戦争へと突入します。
北部のリンカンが勝利することでアメリカ合衆国の統一は維持され、大国アメリカの礎が築かれました。リンカンが南北戦争中行ったことは受験頻出なのでしっかり覚えましょう。
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