みなさん、こんにちは。今回は帝国主義とアフリカの植民地を取り上げます。今回の話は、1884年にベルリン会議が行われ「アフリカは先に支配した国のものとする」と言うアフリカ分割のルールの決定から話が始まります。ベルリン会議のアフリカ分割のルールの下、ヨーロッパ諸国のアフリカの植民地化が進んでいきます。結果、ヨーロッパ各国がアフリカ分割を巡って衝突しました。
今回の受験に役立つヨーロッパの歴史はファショダ事件に限らず、19世紀末から20世紀にかけて、帝国主義を掲げたヨーロッパの列強同士が激しくぶつかり合います。それは各国が産業革命で力を持ったのが原因です。結果、帝国主義各国は第一次世界大戦へと進んでいきます。
ちなみに、前回は、「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(アメリカ南北戦争)【近現代編その6】」について記載しました。まだ読んでいない方は是非とも読んでください。
今回の記事のポイント・独占資本主義が発達した欧米列強は植民地を拡大するためアフリカやアジアに進出
・ビスマルクの引退後、ヴィルヘルム2世は世界政策を実行する
・イギリスの縦断政策とフランスの横断政策が衝突したファショダ事件はフランスが妥協
・三国同盟と三国協商の枠組みが出来上がり、第一次世界大戦で両陣営は衝突した
帝国主義のはじまり
(ロンドン万博:wikiより)
19世紀中ごろ、「世界の工場」と呼ばれたイギリスでは他国に先駆けて産業資本主義が成立させます。資本家たちは自由に競争し、イギリスの経済を発展させました。イギリス政府は世界各地に進出し、外国を原料の供給地や商品販売の市場となる植民地化します。
19世紀後半に石油や電力を使う第2次産業革命が起きると、欧米諸国では重化学工業が発展。それにともなって軍事力もどんどん強くなっていきました。その結果、欧米列強はアジアやアフリカの国々を打ち破り、列強が世界を支配するようになります。
このころ出来上がった仕組みを独占資本主義といいました。大企業は企業同士の協定であるカルテルの締結や企業合併であるトラストを行うことで巨大化。ついには、強力な独占企業であるコンツェルンへと成長しました。
巨大企業はもっと安く原料を供給し、もっと大量の商品を売りさばいて利益を出したいと考えました。その結果、国に対し植民地を拡大するよう求めます。また、資本を運用する大銀行も植民地獲得を後押ししました。
アメリカ・ドイツの成長
(ドイツ帝国成立:wikiより)
19世紀中ごろはイギリスが圧倒的に有利でした。しかし、19世紀後半に統一されたドイツや南北戦争を終結させたアメリカが急成長するとイギリスを脅かす存在となります。
特にドイツの成長はイギリスにとって脅威でした。ドイツ帝国宰相ビスマルクはイギリスなどとの衝突を避け、国内産業の育成に力を入れます。しかし、ビスマルクを退けた皇帝ヴィルヘルム2世は世界政策の名のもとに積極的な海外進出をはかりました。
このあたりのお話は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イタリア・ドイツの統一)【近現代編その5」をお読みください。
アメリカは南北戦争による混乱を立て直したのち、経済を急成長させます。1890年代に西部開拓を終えたアメリカは中南米や太平洋に進出しました。
アフリカの植民地化
(ベルリン会議:wikiより)
16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ人たちは西アフリカやギニア湾沿岸の黒人王国と奴隷貿易を行っていました。特に、17世紀から18世紀にヨーロッパ・アフリカ・アメリカの3つの拠点として大西洋を挟んで行われた三角貿易は覚えておきましょう。
ヨーロッパの武器・雑貨がアフリカ西海岸で奴隷と交換され、それがアメリカで砂糖その他と交換されヨーロッパに戻る形態の貿易です。
19世紀に入り奴隷が禁止されつつある中、欧米列強はアフリカ諸国を植民地化していきます。
イギリスはアフリカ南端のケープ植民地と北アフリカのエジプトを拠点として南北から植民地化をすすめます(縦断政策)。フランスは西アフリカからマダガスカル島を目指して植民地化しました(横断政策)。
アフリカの植民地化が激しくなるきっかけとなるのが1884年に開かれたベルリン会議でした。ビスマルクがベルギー、イギリス、フランス、ポルトガルの対立を調停します。この会議で「(アフリカ分割の原則は)先に支配した国の優先とする」と決まったからです。
イギリスのケープ植民地首相としてアフリカの植民地化を進めたのがセシル=ローズです。彼は「地球の表面を1インチといえども取らなければならない」と述べ植民地化を強行しました。イギリスは南アフリカ戦争を強行し国際的非難を浴びます。
1898年、イギリスとフランスはスーダン南部(現南スーダン)にあったファショダで衝突しました(ファショダ事件)。フランスが妥協したことで戦争は回避されます。ファショダ事件後、イギリスとフランスの関係は改善しました。
これらの事件について、大まかな地図にまとめました。しっかりと理解してください。
20世紀に入るとドイツがアフリカに進出します。東アフリカ、カメルーン、南西アフリカなどを支配したドイツはフランスとモロッコをめぐって対立しました(第一次・第二次モロッコ事件)。
帝国主義諸国の対立
(戦艦:wikiより)
19世紀後半、イギリスは他国と同盟を結ばない「栄光ある孤立」の立場をとっていました。イギリスはアフリカ大陸と東南アジアではフランスと、ユーラシア大陸ではロシアと争いますが、強力な軍事力があったので優位でした。
この当時のヨーロッパ、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟とロシア・フランスの露仏同盟、イギリスが三つ巴でした。
20世紀初頭、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は世界政策を実現するため、3B政策を推し進めます。
(ヴィルヘルム2世:wikiより)
具体的に3B政策とはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によって主導されたベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium、イスタンブールの旧名)・バグダード(Baghdad)を鉄道で結ぶという19世紀末からのドイツ帝国の長期戦略です。
ドイツのアフリカや中東進出に対し、イギリスはフランス・ロシアと手を組んで対抗しました。バルカン半島ではドイツ・オーストリアとロシアが激しく対立します。
イギリスとドイツは相手を上回る海軍力をつけるため、大型戦艦の建艦競争を繰り広げました。フランス、アメリカ、日本も建艦競争に参戦し世界各国で海軍力強化の競争が始まります。
この結果、ヨーロッパはイギリス・ロシア・フランスの三国協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟が対立する時代に突入し、第一次世界大戦を迎えます。
まとめ
産業革命や科学技術の進歩により圧倒的な力を身に着けた欧米列強は世界各地を植民地化していきました。
早い時代から海外に進出していたイギリスやフランス、広大な国土を持つロシアなどに比べると国家統一が遅れたドイツやイタリアは不利な立場に置かれます。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は積極的に海外進出をおこなう世界政策を展開したため、イギリスやフランス、ロシアとの対立を招き、第一次世界大戦の原因を作ります。
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