みなさん、こんにちは。今回も受験生に役立つヨーロッパの歴史シリーズをはじめます。近現代シリーズ第4回は19世紀のロシアと東方問題を取り上げます。
ナポレオン戦争で勝利したロシアはウィーン体制の中でも強い影響力を持った国となりました。アレクサンドル1世が神聖同盟を作ったりしていましたね。詳しい内容は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(ウィーン体制とその崩壊)【近現代編その1】」をお読みください。
このロシア帝国は専制政治と農奴制という古い仕組みの国で、時代が進むにしたがって国内の矛盾が表面化し、第一次世界大戦中にロシア革命によって倒されてしまいました。
今回は、19世紀のロシア帝国の動きについてまとめます。
今回の記事のポイント・ロシアの南下政策は不凍港を得ることが目的だったが、イギリスやオーストリアと対立
・ニコライ二世はデカブリストの乱を鎮圧し、クリミア戦争を始めた
・クリミア戦争で敗れたアレクサンドル2世は農奴解放令を出すが、暗殺された
・露土戦争で再び南下を目指したロシアはベルリン会議で南下を阻止された
19世紀のロシアの国内問題と対外問題
(セヴァストーポリのロシア艦隊:wikiより)
19世紀の初め、ロシア皇帝アレクサンドル1世は神聖同盟や五国同盟の一員として、ウィーン体制を支えていました。上述したように詳しい内容は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(ウィーン体制とその崩壊)【近現代編その1】」をお読みください。
このころ、ロシアには議会がなく、皇帝の専制政治が行われています。農村では西ヨーロッパでは姿を消しつつあった農奴制が健在でした。
国内で改革の要求が出ても、ロシア皇帝は耳を貸しません。そのかわり、弱ったオスマン帝国などを攻撃し領土を拡大する南下政策を実施し、国民の不満をそらさせようとします。
ロシア帝国が南下したがった理由は年中凍らない港(不凍港)を得るためです。不凍港があれば、一年中船を動かし、いつでも軍隊を移動させることや貿易を盛んにおこなうことができたからです。
南下政策はイギリスやオーストリアとの衝突原因となりました。というのも、ロシアが南下すればイギリスは重要植民地であるインドへの道を妨害されることになり、オーストリアはバルカン半島での領土拡大がしにくくなるからです。
ニコライ1世の時代
(ニコライI世:wikiより)
1825年に即位したニコライ1世は、直後に試練に見舞われます。貴族出身の青年将校らが反乱を起こしました。この反乱をデカブリストの乱といいます。1825(いや、富豪)で覚えるのでしたね。反乱は小規模なうちに鎮圧され、首謀者は絞首刑となりました。
ニコライ1世は1830年におきたポーランド反乱も鎮圧し、専制政治を固めます。ニコライ1世の時代、2度のエジプト=トルコ戦争が起きました。
第一回の戦争ではダータネルス、ボスフォラス両海峡のロシア軍艦通行権を得て南下政策が成功したかに見えました。しかし、第二回の戦争ですべての軍艦が両海峡を通行することが禁止され、南下政策は失敗します。
1853年、ロシアはオスマン帝国と戦争を始めます。形式的にはトルコ領内のギリシア正教徒の保護を理由にエルサレムの管理権を求めてトルコに戦いを挑みました。実質は南下政策のためです。
この戦争は主戦場になった地名をとってクリミア戦争といいました。このクリミア戦争でナイチンゲールが活躍した戦争でも有名ですね。ちなみに同年、日本ではペリーが浦賀に来航していますね。日本開国の年ですので覚えておきましょう。
【クルミア戦争覚え方】1853(イヤー誤算)だったねクルミア戦争と覚えましょう。
クリミア半島時点でのロシアの状況について地図を載せておきます。ここら辺について理解をしておきましょう。
ロシアの南下を嫌がるイギリスやフランスはオスマン帝国に味方します。サルデーニャ王国もオスマン帝国側につきました。また、クリミア半島のセヴァストーポリ要塞はイギリス・フランスを中心とする連合軍とロシアの決戦場となりました。(セヴァストーポリは立命館の問題で出題されていますので要チェックです!)
戦いはニコライ1世が死に、アレクサンドル2世の時代になっても継続しました。1856年、クリミア戦争はロシアの敗北で幕を閉じます。1856年のパリ条約で、オスマン帝国の領土保全や黒海の中立化、両海峡の外国軍艦通行禁止がきまり南下政策は失敗します。
アレクサンドル2世の時代
(アレクサンドル2世:wikiより)
クリミア戦争の敗戦処理にあたったアレクサンドル2世は、ロシアの敗北の原因をロシアが遅れている国だからだと考えました。1861年、アレクサンドル2世は農奴解放令を出して西ヨーロッパの国々に近づけようとします。
しかし、1863年にアレクサンドル2世の改革にのっかた農奴たちがポーランド反乱を起こすと、アレクサンドル2世は改革路線を止め専制政治に戻ってしまいました(反動化)。
皇帝の反動化に絶望した知識人(インテリゲンツィア)たちは、人民を教え諭すことで改革に目覚めさせようとします。しかし、農民たちは知識人たちの言葉に無関心でした。よくわからない自由よりも、農民たちにとっては明日の食事など現実が大事だったからです。
人民を教え諭そうというナロードニキ運動が挫折すると、何をやっても無駄だとするニヒリズム(虚無主義)と、政府なんかいらないとするアナーキズム(無政府主義)の動きが生まれました。さらに現状を暴力で変えようとするテロリズムも盛んになります。
1881年、アレクサンドル2世はテロの標的にされ、暗殺されてしまいました。結局、ロシアの改革は不十分な状態で、西ヨーロッパよりも社会システムが遅れた状態で20世紀を迎えてしまいます。
露土戦争とベルリン会議
(ベルリン会議:wikiより)
19世紀後半、ロシアはパン=スラヴ主義を掲げて南下を試みました。パン=スラヴ主義とは、バルカン半島のスラヴ系民族の独立を目指す運動で、スラヴ民族の大国であるロシアがセルビアなどの後ろ盾となってバルカン諸国の独立を支援していました。
1875年、ボスニア=ヘルツェゴヴィナで起きたスラヴ系キリスト教徒の農民反乱がブルガリアにも拡大し、セルビアなどからキリスト教徒を救うべきだと声が上がります。1877年、ロシアはパン=スラヴ主義を掲げオスマン帝国に宣戦布告しました(露土戦争)。
イギリスはロシアの軍事行動は1856年のパリ条約に違反すると抗議しますが、ロシア軍は構わずオスマン帝国領内に進攻しました。ロシア軍はオスマン帝国首都のイスタンブールに迫ります。オスマン帝国は戦いに敗北し、サン=ステファノ条約を結びました。
サン=ステファノ条約では、オスマン帝国からルーマニア、セルビア、モンテネグロが独立すること、大ブルガリア自治公国がつくられ、ロシアの事実上の保護国となることなどが定められました。
ロシア優位のサン=ステファノ条約にイギリスとオーストリアが反発しました。そこで、ドイツのビスマルクが仲裁に入り、ベルリン会議を開きます。ベルリン会議の結果、セルビアをはじめとするバルカン諸国の独立、大ブリガリアの領土縮小やオーストリアのボスニア=ヘルツェゴヴィナ獲得などが決まります。
ベルリン会議の結果結ばれたベルリン条約では、サン=ステファノ条約に比べロシアやスラヴ民族が得る利益は縮小され、イギリスやオーストリアの主張が取り入れられます。ロシアの南下政策は、またしても挫折しました。
オスマン帝国が弱っていることにつけこみ、バルカン半島で権利を拡大しようとするたびにイギリスやオーストリアに阻止されたからです。バルカン方面で行き詰まったロシアは、中国や日本などがある東アジアに進出。日露戦争で日本と衝突します。
今回の記事のまとめ
今回の記事について、19世紀のロシアの流れについてまとめます。ひとまとめにすると以下の感じです。頭の中で簡単に整理をしておきましょう
覚えておきたい今回の記事の流れニコライ1世:デカブリストの乱(1825年)、ポーランド鎮圧(1830年:専制政治を強化)→クリミア戦争(1853年):パリ条約
アレクサンドル2世:露土戦争(1877年)→サンステファノ条約(1878年)→ベルリン会議→暗殺(1881年)
関連問題
クリミア戦争関係は意外と入試で出題されます。今一度きちんと押さえておく必要があります。参考として早稲田大学政経(’19)の問題を改題して出題してみます。
1853年にはオスマン帝国領内の( あ )を口実にロシアが侵攻し、ロシアを牽制するために( い )と( う )がオスマン帝国側について参戦し、クリミア戦争が勃発した。この戦争はロシアの敗北に終わったが、その後もバルカン諸民族の独立運動は止まらず、1875年の( え )における蜂起を契機にロシアは再びオスマン帝国に戦争を仕掛け1878年のベルリン会議によって( お )をはじめとするバルカン諸国の完全独立が承認され、オスマン帝国は広大な領土を喪失した。
この解答は以下の通りです。
どれくらい分かったか確かめた上で解答をみましょう。
(い)フランス
(う)イギリス
(え)ボスニア=ヘルツェゴビナ
(お)セルビア
コメント