みなさん、こんにちは。今回も受験に役立つヨーロッパの歴史シリーズをはじめます。今回は19世紀のフランスを取り上げます。ナポレオンの退位後、フランスでは絶対王政が復活しますが七月革命で崩壊します。その後、ナポレオン3世の第二帝政が起こり、パリ・コミューンにより第三共和制まで話をします。
フランス革命からナポレオンの流れについて詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(フランス革命とナポレオン)【近代編その6】」をご覧ください。
七月王政も二月革命で崩壊すると再びフランスは共和制に移行します。その後、ルイ=ナポレオンが帝政を復活させます。その後、ナポレオン3世の退位後は再び共和政と目まぐるしく政治体制が変化します。今回は、19世紀のフランスについて解説します。
この範囲は意外と受験に出やすいので、後に関連問題をやってみましょう。それでは、早速読んでみてください。
今回の記事のポイント・復古王政は七月革命で倒された
・七月革命で成立した七月王政は、二月革命で倒された
・二月革命で成立した第二共和政は混迷。ルイ=ナポレオンが権力を握った
・ルイ=ナポレオンは皇帝に即位。ナポレオン3世として第二帝政を行った
・ナポレオン3世は積極的に海外に勢力を拡大するが、メキシコ出兵に失敗する
・第二帝政は普仏戦争の敗北で崩壊。第三共和政成立した。
・第三共和政の指導者ティエールはパリ=コミューンを弾圧し壊滅させた
ブルボン朝の復古王政
(シャルル10世:wikiより)
ナポレオンが完全に失脚したのち、フランス王として即位したのはルイ18世(ルイ16世の弟)でした。次に即位したシャルル10世(ルイ18世の弟)は亡命貴族たちの財産を保証するなどしたため国民の反発を受けます。
シャルル10世は国民の不満をそらすため、アルジェリアに出兵しました。その一方で王政に対する批判を厳しく取り締まります。たまりにたまった不満は七月革命という形で爆発しました。
七月革命と七月王政
(七月革命:wikiより)
亡命貴族の財産保護など、反動的な政治を行ったシャルル10世に対しブルジョワジーなどを中心とするパリ市民が一斉蜂起します。七月革命が始まりました。市民たちはフランス革命の重鎮だったラ=ファイエットを担ぎ出し国民軍司令官とします。
七月革命については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(ウィーン体制とその崩壊)【近現代編その1】」で詳しく書いてます。是非とも一読してください。
七月革命には作曲家のベルリオーズや画家のドラクロワも参加していました。「民衆を率いる自由の女神」の絵は必ず押さえましょう。
パリ市民の激しい怒りを前にしてシャルル10世は退位します。ブルボン王家の分家にあたるオルレアン家のルイ=フィリップが国王として即位し、七月王政へと変化します。
二月革命と第二共和政
(二月革命:wikiより)
フランス国民は七月王政の政府に選挙法改正を要求しましたが、ギゾー内閣は要求を拒否します。政府は集会を禁止し、運動を弾圧します。1848年2月、七月王政による運動弾圧に怒ったパリ市民は再び革命を起こしました。これが二月革命です。
二月革命についても「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(ウィーン体制とその崩壊)【近現代編その1】」で詳しく書いてます。
デモ行進をおこなうパリ市民たちは七月王政の政府軍と衝突します。銃撃を受け市民に50名もの死者が出ました。
50名の市民を殺すとかヤバイっす!!
銃撃で鎮静化すれば良かったのですが、市民たちの怒りは逆に増幅しデモは激しさを増していきます。民衆はルイ=フィリップの宮殿を襲いました。
ルイ=フィリップ一家は護衛隊の奮戦でかろうじて脱出に成功しますが、もはや政権を維持することは不可能でした。ルイ=フィリップが去った後、臨時政府がパリで成立。第二共和政が始まりました。
1848年3月、臨時政府は男子普通選挙の実施を布告します。21歳以上の男子全員に選挙権が与えられたため、有権者は900万人に達しました。4月、普通選挙が実際に実施されました。躍進が予想された急進共和派は880議席中100議席前後にとどまります。
急進共和派のリーダーであるルイ=ブランも選挙に敗れて落選しました。これにより、第二共和政の主導権はブルジョワ中心の穏健共和派が握ります。
革新的な後には安定した政権が欲しかったんでしょうね。
革命後、急進共和派は失業対策として国立作業場を設置していました。政権を握ったブルジョワ共和派は国立作業場を閉鎖します。これに怒った労働者たちが六月暴動を起こします。中心人物のルイ=ブランは亡命し、政権は騒動を鎮圧した軍人のカヴェニャックが握りました。
1848年11月、第二共和政憲法が公布されました。この憲法の特徴は3点です。
- 一つ目:人民主権
- 二つ目:男子普通選挙でえらばれる一院制の議会
- 三つ目:大統領を直接選挙で選ぶこと
この憲法のもと当選した大統領がルイ=ナポレオンでした。
ルイ=ナポレオンは、知名度が高く、国民からの圧倒的支持がありました。しかし、議会では少数与党でした。そのため、ルイ=ナポレオンは1851年にクーデタを決行し、権力を確たるものにしました。
第二帝政
(ナポレオン3世:wikiより)
1851年にクーデタを起こしたルイ=ナポレオンは1852年に国民投票を経て皇帝に即位します。ナポレオン3世と名乗りました。これで第二帝政が始まりました。
第二帝政時代の特徴は、産業革命の進行や積極的な対外進出です。ナポレオン3世の時代、フランスは保護貿易から自由貿易に移行します。その結果、フランスの産業革命が進み経済力が向上します。ナポレオン3世はフランスの発展をアピールするためパリ万国博覧会を開きました。
その一方、国民の支持を取り付けるため積極的に海外に進出します。クリミア戦争、アロー戦争、インドシナ出兵、イタリア統一戦争と数多くの外征を行い植民地や勢力圏を拡大することに成功しました。
しかし、1861年から1867年に行ったメキシコ出兵は失敗。ナポレオン3世は失地回復の機会を狙います。
1870年、プロイセン王国(現:ドイツ)宰相ビスマルクはエムス電報事件を利用してナポレオン3世を挑発します。ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告しました(普仏戦争)。
結果、戦争は火力に優れるプロイセン軍の勝利に終わり、ナポレオン3世はスダンで降伏し、失脚します。
第三共和政
(パリコミューン:wikiより)
ナポレオン3世の降伏、退位を受けてパリではティエールが臨時政府を樹立します。臨時政府はプロイセンに降伏し賠償金の支払いとアルザス=ロレーヌ地方を割譲しました。パリの市民たちは講和に反発します市民は、臨時政府軍をパリから追い出してしまいました。
そこで、パリ市民たちはパリ=コミューンをつくります。パリ=コミューンとは史上初となるパリの市民・労働者による自治政府のことです。パリ=コミューンは臨時政府からの自立を宣言しました。共産主義の萌芽とも言われています。
しかし、臨時政府はブルジョワの支持やプロイセン軍の支援を受け、パリ=コミューンを攻撃します。臨時政府軍はパリを包囲し、「血の一週間」とよばれる激しい市街戦の末、パリ=コミューンを壊滅させました。
関連問題
パリ=コミューンに関連して、大学入試の問題を出してみます。よければ解いてみてください。
パリ=コミューン成立に至った経緯を100字以内で記しなさい。ー首都大学東京2019年問3
最後に
フランス革命以降、フランスの体制は目まぐるしく変化します。しかも、めちゃくちゃ入試に出たりします。
そこで、フランス革命後の体制について順を追ってまとめてみました。
フランス革命の第一共和政→ナポレオンの第一帝政→ルイ18世の復古王政→ルイ=フィリップの七月王政→二月革命の第二共和政→ナポレオン3世による第二帝政→ティエールの第三共和政(パリ=コミューン)
フランスの政体変化は入試でもよく出題されるので順番をしっかり覚えましょう。
次回は「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(19世紀のロシアと南下政策)【近現代編その4】」とロシアを追っていきます。
コメント