【世界史B】魏晋南北朝時代【受験に役立つ中国史】第四回

中国の歴史
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みなさん、こんにちは。【世界史B】受験に役立つ中国史シリーズをはじめます。今回は魏晋南北朝時代です。この時代は三国時代の終わりから西晋、五胡十六国時代、南北朝時代までを指します。

 

魏晋南北朝時代は魏から始まる制度や文化、人物が意外と大事なので、魏晋南北朝の時代の流れとともに人物及び文化についてしっかりと覚えていきましょう。特に、魏晋南北朝時代には仏教文化が盛んになります。しっかりと押さえておきましょう。

 

魏晋南北朝時代の流れを簡単に説明すると、三国時代の後、魏の配下だった司馬炎が晋を成立させるも、その後5つの異民族が中国北部で16の国を作り五胡十六国を作ります。一方、晋も中国南方に王朝をたて、南北朝時代が成立します。

 

魏晋南北朝の位置関係も大変難しいので、魏晋南北朝時代の地図を用意しましたので積極的に利用してください。

 

今回の記事のポイント・魏で九品中世と屯田制、晋で占田・課田制度を実施

・五胡十六国時代を終わらせ華北を統一したのは北魏

・北魏の都は平城から洛陽に移転

・敦煌、雲崗、竜門の三大石窟寺院の場所は地図で要整理

・北魏は均田制と三長制、西魏で府兵制。

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三国時代の終焉と西晋の統一

(司馬炎:wikiより)

前回は魏・呉・蜀が中国を三分する三国時代で話が終わりました。詳しくは前回の記事「【世界史B】受験に役立つ中国史 (後漢から三国時代まで) 」をお読みください。そして、三国時代で最も強い国力を誇ったのは魏でした。

 

魏では九品中正とよばれる官吏登用制度が実施され、門閥貴族が誕生します。九品中正とは、官位を一品から九つの品(ランキング)に分け、それを各郡の出身者で政府から任命を受けた中正官が品を決定していく官僚登用制度のことです。中正官が自分の縁故ある人物を官僚にして地方の門閥貴族が力をもつ原因になりました。

 

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S先生

元々は地元の優秀な人物を中正官にリクルートさせるのが狙いだったのだけど、見知らぬ優秀な人より平凡な身内を推薦した方が自分自身の家の繁栄に繋がるので、縁故採用が蔓延る原因となりつつも隋の時代まで続きました。

 

また、流民や兵士に土地を与え生産物を地代でとる屯田制も実施されました。曹操が、戦乱で荒廃した土地に流民や兵士を募って集団で入植させ、耕作させ現物で租税を納めさせたのが始まりと言われています。そして、この制度は後代まで続きました。

 

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S先生

地代が5割で、政府から耕牛を借りた場合は6割だったそうです。それでも貧民は、地代が現物納でよかったことから屯田を希望する者が多かったそうです。

 

屯田制など当時の中国については宮崎市定「大唐帝国-中国の中世」に詳しく書かれていますので是非とも手にとって読んでみてください。

 

263年、魏は蜀を滅ぼしました。その魏でクーデタを起こし、魏を乗っ取って晋を建てたのが司馬炎でした。司馬炎が建てた晋は西晋とも呼ばれます。

司馬炎は280年に呉を滅ぼし、中国を完全に統一します。都を洛陽に置きました。晋では占田・課田法とよばれる土地・税制を施行します。占田とは、田を申告することで、自由農民は男子で70畝、女子で30畝の占田が与えられました。

西晋の滅亡と五胡十六国時代

(莫高窟:wikiより)

司馬炎は魏が滅んだ理由は皇帝一族が土地や力を持っていなかったからだと考え、司馬一族を各地の王侯として配置します。

 

ところが、この政策が裏目に出ました。司馬一族は持っている土地や武力を背景に皇帝の位をめぐって争いが生じました。これが八王の乱です。

 

争いのさなか、皇帝も各地の王も兵力不足を補うため北方異民族を利用します。ところが、長城の内側に入った異民族は皇帝や王たちを攻撃します。匈奴の劉淵は晋の都洛陽を攻め落とし皇帝を捕虜とします。こうして、西晋は滅亡しました

 

西晋滅亡後、晋の王族の一人である司馬睿が江南に逃れ、建康を都として晋を再興します。これを東晋といいました。

 

東晋ができたころ、華北では匈奴・鮮卑・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の五つの異民族が相次いで侵入します。そして、5つの民族(これを胡と言います)があわせて十六の国を建てました。そのため、この時代を五胡十六国時代といいます。

一時、前秦の苻堅が華北を統一します。東晋も滅ぼして中国統一を目指しましたが、383年の淝水(ひすい)の戦いで敗北します。南北分裂の長期化が決定しました。

 

また、五胡十六国時代に西域への入り口にあたる敦煌で石窟寺院(莫高窟)が作られ始めたのは要注意です。インドのアジャンター石窟寺院の影響がみられ、西域色の強い仏像が多いことも特徴です。ちなみにアジャンター石窟寺院はグプタ朝の建物です。詳しくは「【世界史B】受験に役立つインドの歴史 【クシャーナ朝〜グプタ朝】」をみてください。

南北朝時代

(女史箴図(作:顧愷之):wikiより)

江南では420年に東晋が滅亡し宋が成立します。その後、江南では斉・梁・陳と王朝が交替しました。江南の諸王朝のことを南朝と呼びます。

 

華北では鮮卑の拓跋氏が北魏を建国します。平城を都として華北の諸勢力を統合していきました。439年、太武帝が華北の統一を達成します。太武帝は寇謙之を重用し道教を北魏の国教と定めました。そのため、全国各地で激しい廃仏運動が起きます。

 

しかし、太武帝の死後、北魏は仏教を保護します。平城近郊に雲崗石窟を開きました。

 

北魏は三長制を採用して地方支配の安定化を図る一方、均田制を導入して税収を確保します。孝文帝の時代、北魏は都を洛陽に移します。孝文帝は積極的な漢化政策を進め、洛陽近郊に竜門石窟を開き仏教を保護しました。

 

534年、北方警備の兵士たちが起こした反乱をきっかけに、北魏は東西に分裂します。東魏と西魏となります。そのうち、西魏では府兵制が始まったことを覚えておきましょう。府兵制とは現代の徴兵制に近く、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという兵農一致の制度でした。やがて、東魏は北斉に、西魏は北周にとってかわられます。

魏晋南北朝時代の文化

(雲崗石窟:wikiより)

魏晋南北朝時代の文化の特徴は仏教や老荘思想が流行したことです。漢の時代と異なり、儒教は全く振るわなかったことも大きな特徴ですね

 

仏教では4人の僧侶に注目します。一人目は仏図澄。西域のクチャ出身で、洛陽で仏教を広めました。もう一人は鳩摩羅什。こちらもクチャ出身で、長安で仏典の漢訳を行いました。三人目は達磨(だるま)。インド出身で中国に禅宗を広めます。

 

最後の一人は東晋の僧侶法顕。法顕はインドにわたり仏教を学びます。法顕が書いた『仏国記』は入試問題でたびたび取り上げられていますので、しっかりと覚えましょう。インドに仏教を学びに行った人物について「【世界史B】受験に役立つインドの歴史(ヴァルダナ朝と南インドの諸王朝)」でまとめています。また、よければこちらの書籍もお読みください。

 

僧の名前活動内容
仏図澄洛陽で仏教を広める
鳩摩羅什長安で仏教の漢訳
達磨中国で禅を広める
法顕(東晋)インドに行き「仏国記」を書く

ま魏や西晋の時代には竹林の七賢とよばれる人々が現れました。彼らは老荘思想の影響を受け、儒教的な束縛から離れた自由な議論である清談を展開します。

 

漢民族の王朝である南朝では、歴代皇帝の権力が弱かったため門閥貴族たち中心の優雅な六朝文化が栄えます。

 

東晋の陶潜(淵明)は「帰去来辞」や「桃花源記」などの詩をつくります。宋の謝礼運は山水詩をよみました。また、梁の昭明太子は詩文の選集である『文選』を編纂します。この時代に流行した四六駢儷体の詩文が多く収録されていますね。ちなみに四六駢儷体とは四字と六字から成る対句を多用する華麗な文体を指します。

 

書画の世界では何といっても東晋の顧愷之の「女子箴図(じょししんず)」が有名ですね。上の見出しに出てきています。書生とよばれた王羲之の「蘭亭序」も重要な作品です。

(王羲之「蘭亭序」:wikiより)

魏晋南北朝のまとめ

魏晋南北朝時代の約300年間は中国の分裂時代ととらえることができます。華北は五胡十六国や、それを統一した北魏が中心となります。江南では門閥貴族が力を持つ漢民族主体の南朝が成立。

 

貴族文化である六朝文化が花開きます。しました。北魏では新しい制度を取り入れ、国力を増大させます。北魏の分裂後、華北は再び分裂時代を迎えました。南北朝の統一は、北周から支配権を引き継いだ隋の楊堅によって達成されます。

 

前回までの記事「【世界史B】受験に役立つ中国史 (後漢から三国時代まで)

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