こんにちは。今回は中国の美術史について解説して聞きます。
中国美術の核となるのは書画です。魏晋南北朝時代から唐・元にかけて、書は発展しました。
中国伝統の絵画は院体画と文人画として発展。士大夫の教養とも結びついた文人画が優勢となります。また、清の乾隆帝時代の画家カスティリオーネは中国に西洋画法を持ち込み、影響を与えました。
それでは、早速みていきましょう。
今回の記事のポイント・南朝中心に花開いた文化を六朝文化という
・絵画は顧愷之と呉道玄と徽宗、書道は王羲之の出題率が高い
・元代の中国画法は、イスラーム世界の細密画(ミニアチュール)に影響を与えた
・明以降、中国絵画は北宗画と南宗画の二つの流れが主流となる
・清のころには、南宗画が優勢となった
古代から宋までの中国文学史
(顧愷之『女史箴図』:wikiより)
魏晋南北朝の時代、華北地方にいた知識人たちは戦乱から逃れるため、長江周辺へと避難しました。そのため、この時代の文化は南朝を中心に花開きます。これらの文化を六朝文化といいます。
六朝文化を代表する画家は「画聖」と称された顧愷之でした。残念ながら、顧愷之の真筆は現存しませんが、模写が残されています。もっとも有名な『女史箴図』(じょししんず)は南北朝時代の宮廷生活を今に伝えてくれます。
顧愷之の次によく出題されるのが唐代の呉道玄です。8世紀前半に活躍した天才画家で、玄宗皇帝時代に画才を認められ、宮廷画家となりました。繊細な顧愷之の画風と異なり、力強く変化にとんだ作品を生み出します。
(呉道玄『八十七神仙図巻』:wikiより)
呉道玄は仏教寺院や道教の寺院である道観などの壁画を描きました。題材は人物や仏像、山水などあらゆるものに及びます。
宋の時代になると、極彩色で華麗な院体画と水墨中心の文人画に分かれます。院体画の代表は北宋皇帝だった徽宗。徽宗が描いた『桃鳩図』は写真問題などでもよく出題されます。
(徽宗『桃鳩図』:wikiより)
あと、1127年に靖康の変によって金に捕らえられるというのでも有名です。詳しくは「【世界史B】宋と北方民族【受験に役立つ中国史】第7回」を見てください。
文人画の代表は牧谿(もっけい)です。
(牧谿『漁村夕照図』:wikiより)
牧谿が描いた水墨画は日本にも影響を与えます。雪舟の水墨画にも影響が見て取れます。ちなみに、最も熱心に牧谿を学んだ絵師は長谷川等伯で、「松林図屏風」もその成果が結実した作品と言われています。
美術史というより、経済史の分野でよく出題されるのが『清明上河図』。北宋の都である開封の繁栄ぶりについて描きました。
(清明上河図)
六朝文化を代表する書道家は王羲之です。王羲之は「書聖」とよばれ、後世の書道家の手本となります。王羲之の「蘭亭序」は現在でも書道史上、最も有名な作品ですね。
唐の時代になると、欧陽脩・虞世南・褚遂良らが活躍します。楷書の達人として知られた顔真卿は安史の乱で反乱軍と激しい戦いを繰り広げました。
元から清まで中国美術史
(カスティリオーネの乾隆帝:wikiより)
元末から明初にかけての時代、黄公望らが文人画の技法を確立します。また、元の時代の中国画法はイスラームの細密画(ミニアチュール)に影響を与えました。
(黄公望:wiki)
明の時代になると、院体画の流れをくむ濃厚な色彩の画風を北宗画、文人画の流れをくむ董其昌らが完成させた水墨で描く南宗画の二つが中国絵画の主流となりました。
文人画の画法が完成させたのは明の董其昌です。董其昌は文人画を完成させただけではなく、北宗画を批判します。
明末清初のころ、中国にはイエズス会の宣教師たちが訪れます。宣教師については、文化史の「元から清までの中国思想史」の記事を参考にしてください。
美術の面で大きくかかわったのはカスティリオーネです。カスティリオーネは西洋画法で乾隆帝を描いたことで知られます。
まとめ
古代中国において、顧愷之の繊細な画風が一世を風靡しました。顧愷之とは異なる画風で成功したのが呉道玄です。その後、中国絵画では院体画の流れをくむ北宗画と、文人画の流れをくむ南宗画の二つの流派が主流となりました。
書道はなんといっても王羲之が最高峰。「蘭亭序」は王羲之の書風の頂点ともいえるでしょう。唐代では欧陽脩ら初唐の3人の書道大家と、盛唐から中唐にかけて活躍した顔真卿が要注意です。
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