こんにちは。今回は世界史の中国史について、古代黄河・長江文明から周、春秋戦国時代の諸子百家から秦の始皇帝の政治まで一気に解説をしていきます。
正直覚えてしまえば何も難しくないので一つづつ覚えていきましょう。今回は、中国の王朝の覚え方らから古代から殷、周、春秋戦国時代について語ります。
それでは早速始めていきます。Here we go!
王朝の名前をざっくり覚えよう
いきなり中国の歴史に入る前に、中国の歴代王朝の名前を覚えていきましょう。簡単なので10回くらい唱えると覚えると思います。
実際数多くの生徒に覚えさせてきてみんな10回前後で覚えていました。対象生徒は小学5年生から高校3年生まで実験済み(笑)です。唱えていたら自然と覚えるみたいな感じでしょうか。
か・いん・しゅう・しん・かん・しん・かん・さんごく・しん・な・ずい・とう・ご・だい・そう・げん・みん・しん・中華民国・中華人民共和国
かなりゴリゴリの感じですが、これを唱えることで完全に王朝は頭に入ります。因みに、漢字にすると
夏・殷・周・秦・漢・新・漢・三国・晋・南(北朝)・隋・唐・五代・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国
という形になります。細かい王朝がないとか言われそうですが、あくまでざっくりとなので細かい知識はここから肉付けしていけばいいと思います。
中国文明について
中国最古の文明として、黄河、長江に文明がみられます。二つ合わせて河江文明(中国文明)という呼び方もついてきました。時代でいえば新石器時代です。そしてこの時代に発掘された陶器の特徴によって2つの時代に分けて説明されます。
黄河文明
●仰韶文化
前5000〜4000年頃、初期農耕文化の遺跡が河南省仰韶で発見されました。あわやキビを栽培して竪穴住居にすむ生活をしていました。赤っぽい素焼き土器で彩文土器が発見されたことから彩陶文化と言われます。
なお、前5000年ころ長江下流域に稲作農耕や高床式住居の文化を特色とする 河姆渡(かぼと)遺跡が発見され、前2500年頃には四川省に三星堆遺跡が発見されました。これらは長江流域に栄えた文明なので長江文明とも言われます。
●竜山文化
前3000年頃には牛や馬などの家畜が飼われるようになり、黒陶(高温で焼いた黒色の薄く丈夫な土器)が使用されました。この土器から黒陶文化であったり遺跡が山東省の竜山で発見されたことから竜山文化と言われます。
殷(商)について
先ほどの暗記で「夏」と出てきた思いますが、夏王朝については伝説の王朝と言われ今ひとつはっきりとしません。大規模な治水工事をしただの伝説の名君がいただの史的に発見はされていません。(但し、中国では夏王朝の遺跡は発見されたということになっていますが日本はまだ認めていないのが実情です…)
殷は殷墟という遺跡が残っています。文字と青銅器に代表される文化を発展しました。実は、私はこの殷墟には行ったことがあるのですが、その遺跡のあとで住民が太極拳をしていました…。遺跡が完全に生活に溶け込んでいるというか、あまり頓着しないというか、中国という感じです。
で、この殷墟ですが、ここから甲骨文字の書かれた亀甲や獣骨が見つかります。文字の形は以下のような感じです。まぁ、素人には全く読めませんね。因みに、この甲骨文字ですが清の時代の官が病気の治療のために骨を砕いて飲もうとした時に文字が書いてあることに気づき、発見されたそうです。
この時代は王様が占いを参考にして祭政一致の神権政治という形で政治がなされました。因みに妲己という美女が「酒池肉林」などをして王朝を滅亡させます。日本でも「封神演義」という漫画で紹介されていますね。
なお、この時代を商と言いますが、後の時代の人間がお金を稼ぐ事を嫌いお金に汚いイメージをつけるために「商人」という言葉が生まれました。
周(西周、前11世紀〜前770年)
前11世紀半ば、陝西省の鎬京で周という国ができました。この王朝交代の事を孟子は「悪政が続くと有徳者が天命を受けて天子となる」と唱えました。そしてこれを「易姓革命」と呼び、これ以降王朝交代の際には正当化の根拠として使用されました。
そして、周の時代の大事なキーワードは「封建制度」です。これはトップが土地を与えて下が働くというシステムです。土地の代わりにお金として軍役の代わりに労務としたら今のサラリーマンと代わりませんよね。とにかく、トップが周王朝でその下に諸侯、士大夫などがいました。
また、こうした封土は世襲制になり、血縁を仲立ちとした「宗族(父系祖先を同じくする親戚一族)」が重視され、宗族の団結を守るために「宗法」が整備されました。
その後、前770年異民族の犬戎が鎬京を攻め込み、都を洛邑に移し東周と呼ばれますが力も弱く滅んでいきます。
春秋・戦国時代
(孔子像)
周が滅び、秦の始皇帝が中国を統一するまでの間を春秋・戦国時代と言います。これは、孔子の「春秋」という書物と前漢時代に編纂された「戦国策」という歴史書から名前が取られています。この時代の特徴として
①下剋上(下の者が上の者を倒す)が盛んとなった。 ②鉄製農具の使用により農業の生産力が大きく向上した③青銅貨幣の誕生により富が蓄積されるようになった、という点にあります。
また、この時代様々な人間が活躍し、 諸子百家と言われる思想グループが活躍します。
儒家について
儒家として孔子が活躍します。彼の言行録である「論語」が有名ですね。
これは、彼の弟子との対話という形で弟子によってまとめられたものです。政治は力ではなく徳(人格の高さ)により統治する徳治主義を掲げ、理想の政治体系を周と考えていて封建制度を理想としていました。
孔子の死んで100年近くして活躍した孟子がいます。性善説が有名です。「人間は生まれながらにして善であり、環境や教育の力でさらに発展させるべきだ」という考え方です。また「王道政治」という君主に一般人民の利益を重んじる考えを説きました。
一方、儒家のグループに荀子もおり、彼は性悪説を唱えます。但し、彼の性悪説は「人は生まれながらの善悪の判断はできないので礼楽(正しい儀式)によって導かれるべき」という考え方です。彼の性悪説ですが生まれながらに人間は悪だという主張ではないので注意してください。
なお、荀子の門下である韓非や李斯は人を正しく導くために刑罰が必要だという法家の中心となっていきます。
墨家について
代表な人物は墨子です。孔子を批判して「兼愛(身分の上下に関わらず愛を施すべきという考え)」こそ大事と唱えました。
また、戦争を強く否定する「非攻」という考え方を唱えました。守りが硬い「墨守」という言葉は墨家から来ています。
道家について
これは老子が始め、荘子が発展させていきます。無為自然(全てを自然の流れに任せること)が良いと考え礼楽を学んだりするような人為的努力を虚しいものと考えました。
儒家が支配者層に重んじられたのに対し一般大衆に人気が出ました。
法家などその他の諸子百家について
法(刑罰)によって政治を行うという考え方です。法学部の教授が法とは中国では刑罰をさすのだと力説していたのを思い出されます。商鞅、韓非、李斯が有名ですね。全員ろくな死に方をしていません。
商鞅は自ら車裂きの刑を作り自らの失脚とともにそれで死に、韓非は李斯に毒殺され、李斯は胴体を真っ二つに切るという腰斬の刑で死にます。全員、秦につかえ制度設計に携わるも人々の統治に法で持って行うという発想でした。
その他の諸子百家には戦術をとく兵家の孫子、呉子が代表的で、論理的な考えの重要性をといた名家の公孫竜などもいます。また、外交政策をといた縦横家に蘇秦と張儀が有名です。前者は秦以外の国が同盟して秦と対立する合従策を述べ、後者は秦の配下に入り生き延びる連衡策を述べました。
当時の著作
当時、周の記録を元に伝説の王朝から周までを記す「書経」、中国最古の詩集である「詩経」、楚の屈原の作品が多く収められた詩歌集「楚辞」などがあります。因みに屈原は楚の現状に絶望して自殺しました。
さて、いよいよ次回から秦について語ります。今回は以上です。詳しくは「【世界史B】受験に役立つ中国史(秦〜前漢末)第二回」から
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