今回は、松方正義が行ったデフレ政策から大同団結運動までを解説します。
松方の施策により困窮した農民が、自由党の急進派と結びついて起こした激化事件についても詳しく説明しました。
後半には語呂合わせや入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。
この記事からわかること
・松方正義は、日本銀行の設立・銀本位制の採用など、さまざまな財政政策を行った。
・松方財政では、インフレからデフレに転じただけではなく、農民は一部のお金持ち(例:寄生地主)を除いてさらに窮乏化した。
・生活に苦しむ農民が自由党の急進派と結びついて、激化事件に発展した。
・激化事件をきっかけに、自由民権運動の勢いが衰えた。
・自由党と立憲改進党がこれまでの対立を忘れて、もう一度団結して国会開設に備えようとした運動を大同団結運動という。
・井上馨外務大臣の条約改正交渉失敗をきっかけに、三大事件建白運動が起きた。
・大同団結運動に対して政府は、保安条例を出して民権派を東京から追放した。
・大同団結運動をもって自由民権運動は終わった。
松方財政
(松方正義:wikiより)
明治十四年の政変により大隈重信が罷免されたあと、大蔵卿に就任した松方正義はさまざまな財政政策を実施します。
当時の日本は、西南戦争の影響で深刻なインフレ状態に陥っており、不換紙幣を増発していました。そこで松方はまず1882年に日本銀行を設立し、当時紙幣を作っていた国立銀行からお札を作る権利(銀行券発行権)を取り上げます。全国に153行もあった国立銀行からお札を作る権利を奪って、紙幣の乱発を抑えようとしたわけですね。
さらに軍事費以外の歳出を削減し、世に出回っている紙幣の数を減らそうとしました。その結果、インフレからデフレに転じ、物価が下落します。
農民の負担は大きくなり、自作農が土地を手放して小作農に転落する一方、大地主のもとに土地が集中しました。なかには、小作農に田んぼを貸して小作料(レンタル料)を取り立て、自らは農業には従事しない者も出現しました。彼らを寄生地主といいます。一部のお金持ちを除いて、農村はますます貧困化していくことになるわけです。
自由民権運動の盛り下がり
(景山(福田)英子:wikiより)
この時期になると、困窮化した農民が自由党急進派と結びついて、反乱を起こし始めます。
1882年の福島事件を皮切りに、高田事件(1883)・群馬事件・加波山事件・秩父事件(1884)・大阪事件(1885)など、続々と反乱が起きました。この一連の事件を激化事件といいます。
ここではとくに重要な福島事件・秩父事件・大阪事件を紹介します。福島事件は、福島県令の三島通庸が不況下にあった農民に対して労役を課して県道をつくろうとしたことに農民が抵抗した事件です。秩父事件は、約3000人の農民が急増する負債の減免を求めて、多数の民衆と共に高利貸し・警察などを襲撃した事件を指します。大阪事件は、旧自由党の大井憲太郎らが、朝鮮で独立党政権を立ち上げ、保守的政府を倒そうとしたところ、事前に計画が発覚して大阪で検挙されたという事件です。この中には東洋のジャンヌ・ダルクとも称される景山(福田)英子もいました。
立憲改進党と対立していて混乱状態だった自由党の指導部は、党員の統率に自信を失い、運動資金の調達に失敗したこともあり、1884年に解散します。さらに立憲改進党も、党首・大隈重信ら中心的指導者が離党し事実上の解党状態に陥り、自由民権運動の勢いは徐々に衰えていきました。
大同団結運動
(後藤象二郎:wikiより)
1885年に内閣制度が制定され、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任しました。
こうして国会開設の時期が近づくと、民権派が東京に再結集し始めます。これまでの自由党と立憲改進党の対立は水に流して、もう一度団結して国会開設に備えようとしたわけです。この運動を大同団結運動といいます。
民権派は、外務大臣・井上馨による条約改正交渉の失敗を目の当たりにしたことをきっかけに、三大事件建白運動を起こします。三大事件建白運動とは、地租の軽減・言論集会の自由・外交失策の回復(対等条約の締結)の3つを要求した運動です。
これに対して政府は1887年に保安条例を出して、民権派を東京から追放するとともに、後藤象二郎を政府側へ引きずり込みました。この大同団結運動をもって、自由民権運動は終焉へと向かいます。
今回の範囲はここまでです。続いて語呂合わせ・入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。
語呂合わせ
ここでは今回登場した重要なキーワードにまつわる語呂合わせを紹介しています。年号の暗記にお役立てください。
三大事件建白運動:いややなぁ(1887)、無茶な要求ばっかりして
保安条例:人は離(ひとははな(1887))れる保安条例
入試問題にチャレンジ
富国強兵をかかげた明治政府ではあったが、初期の財政基盤は不安定であった。当時は財源としての租税の選択肢が限られており、特に不平等条約のもとでは関税率の引上げも難しかった。こうした状況下で、歳入の安定確保をめざして行われた税制改革が地租改正である。【ア】の交付を受けた土地所有者が納税者として確定されるとともに、豊凶や米価変動に関係なく一定の税収が見込めるようになったことで、直接税の地租は明治前期の重要な財政基盤となった。
他方、明治中期になると間接税の酒税も重要性を増していく。酒税は、明治十四年の政変後に大蔵卿【イ】のもとで大きく税率を引き上げられた後、日清戦争後に膨張した国家財政を支えるため、さらに増徴された。
こののち、経済成長とともに、直接税では所得税・営業税・相続税など、間接税では砂糖消費税・織物消費税などの導入や増徴が続いた。明治末期までには、租税収入に占める間接税の割合が顕著に高まり、税収の構造は明治前期と大きく様変わりするに至った。
空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを、次の①~④納地から一つ選べ。
① ア 太政官札 イ 江藤新平
② ア 太政官札 イ 松方正義
③ ア 地券 イ 江藤新平
④ ア 地券 イ 松方正義
まとめ
今回は松方財政や激化事件、自由民権運動について見てまいりました。
とくに激化事件が起きた背景・自由民権運動が再興するまでの流れ・大同団結運動に対する政府の対応をしっかりマスターしておきましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「自由民権運動(明治十四年の政変)について問題つき解説【日本史第64回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「憲法制定・初期議会についてわかりやすく解説【日本史第66回】」
日本史全体像を理解するには「一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」がおすすめです。全体の流れが頭に入ってくるおすすめの一冊です。ぜひとも一読をおすすめします。
コメント