こんにちは。日本史Bの時間です。
前回で、鎌倉幕府の崩壊を見ていきました。そこで、後醍醐天皇が行った新たな政治である建武の新政について見ていきます。
建武の新政は年号も覚えておく必要があるので語呂合わせも用意しました。そして、今回は建武の新政の特徴とその仕組みと失敗の原因を見ていきます。また、室町幕府の走りとなる足利尊氏の動向も見て行きましょう。
最後に、まとめの確認テストを用意しました。是非とも内容を理解した上でしっかりと解いていきましょう。
今回の記事のポイント・建武の新政の内容がわかる
・足利尊氏の動向がわかる
・確認テストを受けられる
建武の新政とは
(文観開眼『絹本著色後醍醐天皇御像』(清浄光寺蔵、重要文化財)Wikiより)
建武の新政とは、1333年、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が始めた新しい政治を指します。
平安時代の醍醐・村上天皇の親政である延喜・天暦の治を理想としていますが、建武の新政の中身は随分と違ったものになっています。
建武の新政以前、鎌倉幕府、上皇など様々な権力がありました。そこで、権力の錯綜状態を解消し、後醍醐天皇自身に権力を集中し、天皇が理想とする新しい国の仕組みを作ろうとしたのが建武の新政です。
これが「昔の仕組みに戻そう」とするものではなく「新しく作るもの」だと考えられていたことは、梅松論にある後醍醐天皇の以下の言葉に表れています。
「朕の新儀(新しいやり方、仕組み)は後世の先例たるべし」
年号は鎌倉幕府滅亡の翌年ですが、語呂合わせで以下の形で覚えてもいいでしょう。
いざ(13)見よ(34)! 建武の新政
建武の新政の仕組み〜公家と武家の仕組みを取り入れる〜
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒したわけですが、だからといって武家的なものを全否定したわけではありません。
大事なのは天皇自らに権力を集中することであって、それに反しないのであれば、武家的な仕組みでも、役立つものなら利用します。
その方針はたとえば、全国に国司と守護を併置したことなどによく表れています。
その一方で、天皇への権力集中を象徴するのが「綸旨(りんじ)」です。
綸旨とは、天皇の命令のことですが、同じく天皇の命令である、詔や勅に比べて、自由に発令することができます。
そして後醍醐天皇は、その綸旨を絶対万能であるとしました。簡単に「絶対的命令」を出せるようにしたというわけです。
建武の新政の政治機構
建武の新政の政治機構を見れば、公家と武家、両方の仕組みを取り入れていることがよくわかります。以下に主な政治機構を見てみましょう。
【中央】
- 記録所…政務の最高機関
- 雑訴決断所…所領関係の裁判
- 恩賞方…恩賞の決定事務
- 武者所…京都の治安維持
- 征夷大将軍…護良(もりよし)親王
【地方】
- 鎌倉将軍府…関東の統治
- 陸奥将軍府…東北の統治
- 諸国に国司と守護を併置
記録所というのは元々、平安時代に荘園整理のために設置された役所(記録荘園券契所)ですが、建武の新政では政務の最高機関となっています。
そのメンバーは家柄よりも能力重視で選出されました。
裁判も当初は記録所が行っていましたが、この時期、貴族や武士の所領を巡る争いは非常に多いですから、その争いに迅速に決着をつけてやらなければ、世の中は安定しません。
そこで、所領関係の裁判を専門にする役所として、雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)が設置されました。これは鎌倉時代の引付衆を参考にしたとも言われています。
武者所(むしゃどころ)は京都の治安維持に当たりますが、新田義貞が頭人(とうにん)に任命されました。
都から遠い東国には、その統治のために「ミニ幕府」のような役所が置かれました。
それが鎌倉将軍府と陸奥将軍府です。
鎌倉将軍府では、成良(なりよし)親王を足利直義(尊氏の弟)が補佐して、関東の統治に当たりました。
陸奥将軍府では、義良(のりよし)親王を北畠顕家が補佐して、東北の統治に当たりました。
以上のように後醍醐天皇は、武家的なものを否定するどころか、利用できるものはしっかりと利用していることがわかります。
建武の新政の失敗
(足利尊氏像(浄土寺蔵)・Wikiより)
しかし、後醍醐天皇への権力集中を背景に、「先例にこだわらず、後醍醐天皇が最善と考える仕組みを採用する」「使えるものは公家的であっても武家的であっても使う」という姿勢が、建武の新政の失敗につながってしまいました。
公家の期待を裏切る
摂関家を始めとする貴族たちとしては、単純に、武士が力を持つ以前の、彼らにとっての「古きよき時代」に戻してほしかったわけです。
ところが後醍醐天皇は先例を無視し、信念に基づいて新しい仕組みを作っていきます。それどころか天皇は、貴族たちが嫌っていた武家的な仕組みも利用します。
それで貴族たちの中にも、後醍醐天皇に不満を持つ者が増えていきました。
武家の慣習を無視
武士も新しい仕組みが好きなわけではなく、鎌倉時代のように権力者に所領安堵してほしかったわけです。
ところが後醍醐天皇は、御成敗式目に定められているような武家の慣習も無視して、政策を断行します。
先例や慣習ではなく、綸旨によって発せられた天皇の命令が絶対というわけですね。
また、武士から見れば、鎌倉時代に比べて公家が力を強めてきたわけだから、「鎌倉幕府打倒のために命がけで戦った武士よりも公家が重用されるのは不公平だ」という不満もあったことでしょう。
いろいろな勢力に不満を持たれ、政治がうまく行かずに混乱している様子は、京都賀茂川の河原に掲げられた「二条河原落書」で風刺されています。
足利尊氏の離反
諸勢力の中で高まる不満と流れの変化を敏感に感じ取ってそれを利用したのが足利尊氏です。
1335年に起こった中先代の乱(北条時行を中心とする旧幕府勢力の反乱)の鎮圧に、尊氏は天皇からの命令を得ないまま出陣し、その後は次第に独自の行動を取るようになり、ついには後醍醐天皇から離反します。
1336年に足利尊氏は、天皇側の楠木正成、新田義貞の軍を湊川の戦いで破り、京都を奪ってしまいます。
後醍醐天皇は吉野に逃れて建武の新政は挫折、足利尊氏が京都で新たに光明天皇を擁立したため、以後は南北朝に分かれて争うことになります。
確認問題
後醍醐天皇…( ① )統出身で、( ② )年に鎌倉幕府を倒し、建武の新政スタート醍醐・村上天皇の親政=( ③ )の治を理想としました。
建武の新政の政治機構
( ④ ) …最高政務機関
( ⑤ )…所領裁判
( ⑥ )…恩賞事務
( ⑦ )親王→征夷大将軍
( ⑧ )将軍府…成良親王を( ⑨ )が補佐
( ⑩ )将軍府…義良親王を( ⑪ )が補佐
全国に国司と⑫を併置
天皇の命令=( ⑬ )を濫発
( ⑭ )=建武の新政時の世の中を風刺
1335年( ⑮ )の乱を契機に( ⑯ )が離反
1336年後醍醐天皇は( ⑰ )に逃れ、建武の新政は終わる
まとめ
後醍醐天皇は、それまでの摂関政治や院政、幕府政治を否定し、持明院統と大覚寺統の対立も乗り越えて一身に権力を集中しようとしました。
そうして得た力で、自分の理想とする国の仕組みを作ろうとしたのですが、それが先例を無視したものだったため、武家だけでなく公家からも不満を持たれることになりました。
そのため政治も混乱してしまい、また各勢力の不満を利用される形で、建武の新政は挫折に追い込まれたのでした。
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前回の記事は「両統迭立から鎌倉幕府滅亡までを解説(入試問題つき)」です。まだ読んでいない人は是非読んでください。
コメント
[…] しかし、建武の新政は、公家と武家から現実にあっていないという点で反発がありました。詳しくは前回の「建武の新政(後醍醐天皇と足利尊氏について解説)確認問題つき」を読んでください。 […]