今からおよそ1200年前、都が奈良の平城京に移りました。奈良時代とは、平城京に遷都してから84年間をさします。世紀でいえば8世紀です。
奈良時代を代表する天皇は何といっても聖武天皇と孝謙天皇。天武天皇系の天皇たちが活躍した時代でした。
実際の政治は、皇族や藤原氏が中心となって行われます。皇族と藤原氏は交互に政権を握りました。その後、称徳天皇が道鏡を重用し、極端な仏教政治が行われます。
今回は、中学校でなら知識よりもプラスアルファし、高校で習う日本の歴史(奈良時代)の大まかな流れを紹介します。
- 奈良時代は今から1200年前の時代
- 受験で覚えるべき天皇は元明天皇、聖武天皇、孝謙天皇(称徳天皇)
- 奈良時代の政治を担当した順番は、長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡
- 奈良時代に書かれた歴史書は『古事記』と『日本書紀』
奈良時代とは?奈良時代は何年前の時代なの?
(平城宮:wikiより)
奈良時代は今からおよそ1200年前の時代です。710年の平城京遷都から、794年の平安京遷都までの84年間をさします。
奈良時代に栄えた文化を天平文化といいます。飛鳥時代の飛鳥文化・白鳳文化と同じく仏教中心で、唐の影響を強く受けた文化ですね。
受験で覚えるべき奈良時代の天皇と政治
奈良時代で覚えるべき天皇は、
- 平城京に遷都した元明天皇
- 奈良時代の中心的な天皇といえる聖武天皇
- 聖武天皇の娘で奈良時代後期の政局を動かした孝謙天皇(称徳天皇)
です。
以下詳しく解説していきます。
元明天皇と藤原不比等
文武天皇が707年に亡くなったとき、文武の子である首皇子(のちの聖武天皇)はまだ幼かったので文武天皇の母である元明天皇が即位しました。
都が平城京に移ったのは元明天皇のときですね。
元明天皇の次は、文武天皇の姉妹である元正天皇が即位しました。これも、聖武天皇までのつなぎです。元明天皇・元正天皇の時代に重臣として朝廷に仕えたのが藤原不比等でした。
和同開珎と蓄銭叙位令
708年、朝廷は中国に倣って銅貨を発行しました。それが、和同開珎です。しかし、日本では物々交換で事足りていたので、和同開珎はあまり使われませんでした。
711年、朝廷は蓄銭叙位令を出します。銭をためたものに位を与えたり、位を昇進させたりするという命令でした。
しかし、この制度は銭をただ溜め込ませるだけに終わったので、和同開珎を使わせようという目的を果たせません。
710年:平城京へ遷都
元明天皇の時代、藤原京から平城京に移りました。
この710年が奈良時代の始まりとされます。藤原京も平城京も碁盤の目状の区画を有する条坊制の都ですね。
(平城京条坊:wikiより)
受験でも、条坊制という言葉は良く効かれるので要注意ですよ。
古事記と日本書紀
中学校のころから教わる日本の二つの歴史書、『古事記』と『日本書紀』。書かれたのはともに奈良時代のことでした。日本の正史として書かれたのが『日本書紀』。神話時代の伝承に重きを置いたのが『古事記』です。
稗田阿礼の語りを太安万侶が筆記したのはどちらでしょう?そう、そちらは『古事記』ですね。
『日本書紀』にかかわるのは舎人親王です。『古事記』と『日本書紀』はあわせて「記紀」とよばれますので、そちらも暗記しておきましょう。
長屋王と元明天皇
飛鳥時代の前半から奈良時代の初めにかけて、天皇でいえば天武天皇、持統天皇、文武天皇、元明天皇のころですね。この時代は、皇族が政治の中心でした。皇親政治ともいいますよ。
奈良時代前半、皇親勢力の代表として権勢を振るったのが長屋王でした。長屋王時代には、どのような政策が行われたのでしょうか。
百万町歩開墾計画と三世一身の法
奈良時代前半、農民たちに与えていた口分田が早くも不足していました。そこで、長屋王は百万町歩という広大な面積の農地を開こうとします。しかし、これは計画倒れで終わってしまいました。
そのため、三世一身の法に切り替えられます。この法律では、新規に開墾した土地は三世代、新たに開墾した土地は一世代、私有することを認めます。では、三世代たった後はどうなるのでしょう。その後は、国に土地を返還しなければなりませでした。
あくまでも律令体制の公地公民の原則内での改革だったため、農民や貴族たちは土地の私有が出来ません。三世一身の法は、農民や貴族の開墾意欲を引き出し続けるものではなかったのです。
長屋王の変
聖武天皇が即位すると長屋王は左大臣に昇進。
政権の中心となりました。729年、長屋王が謀反を起こそうとしているとの密告が朝廷にもたらされます。藤原宇合は長屋王の屋敷を包囲。
長屋王を自殺に追い込みました。これが、長屋王の変です。
藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂と聖武天皇
長屋王の死後、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟が政権を握ります。
しかし、737年に藤原四兄弟は天然痘によって相次いで亡くなりました。
橘諸兄と孝廉天皇
藤原四兄弟の死後、橘諸兄が政権を握ります。
740年:藤原広嗣の乱
橘諸兄が政権を握ると、藤原宇合の子である広嗣が九州で反乱を起こしました。
しかし、反乱は失敗に終わります。
741年:国分寺建立の詔
聖武天皇は仏教を中心とした国づくりを目指します。
(聖武天皇:wikiより)
そのため、日本全国に国分寺と国分尼寺を建立するよう命じる国分寺建立の詔を発します。
743年:大仏造立の詔と墾田永年私財法
国分寺建立の詔の二年後、聖武天皇は総国分寺である東大寺に盧舎那仏の建立を祈願。大仏造立の詔を発します。
同じ年、朝廷は墾田永年私財法を発布しました。身分や位階による制限はあるものの、開墾した田畑の私有を認めた法令でした。
752年:東大寺大仏の開眼供養会
743年に造立を開始した大仏は10年弱の歳月をかけて完成にこぎつけました。
(盧舎那大仏)
大仏造立に功績があったのは大僧正の行基です。開眼供養ではインド僧の菩提僊那が導師をつとめました。
753年:鑑真来日
大仏造立の翌年、中国から鑑真が来日します。
日本が鑑真を呼び寄せたのは僧侶たちの戒律を定めるためです。朝廷は来日した鑑真に唐招提寺を建て、僧侶の戒律を定めてもらいます。
藤原仲麻呂と孝謙・淳仁天皇
聖武天皇が退位すると、娘の阿部内親王が即位します。孝謙天皇となりました。
孝謙天皇の退位後は、淳仁天皇が即位します。
恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)
孝謙天皇と藤原仲麻呂の相性は悪く、対立したといいます。そのため、孝謙天皇は退位します。
かわって即位した淳仁天皇は実力者である藤原仲麻呂を重用しました。藤原仲麻呂が恵美押勝の名を賜ったのはこのころです。
760年、藤原仲麻呂の後ろ盾となっていた聖武天皇の皇后で孝謙上皇の母である光明子が亡くなります。
孝謙上皇は藤原仲麻呂を恵美押勝の乱で倒すと、淳仁天皇を退位させ重祚。称徳天皇となりました。
道鏡と称徳天皇
称徳天皇の参謀役として活躍したのが僧侶の道鏡です。
道鏡は太政大臣禅師という前例のない地位にのぼり、仏教中心の政治を行いました。
宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)
769年、九州の宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にせよという神のお告げが下ったと朝廷に報告がありました。朝廷は和気清麻呂を派遣し事実を調査。お告げは偽りであると判明します。
この調査結果に不満を持った称徳天皇は和気清麻呂を失脚させました(宇佐八幡宮神託事件)。770年、称徳天皇が亡くなると道鏡は失脚します。下野薬師寺に左遷されました。
藤原百川と光仁・桓武天皇)
称徳天皇の死により、天武天皇系の血筋は断絶しました。
重臣の藤原百川は天智天皇の血筋である光仁天皇を即位させます。光仁天皇の子である桓武天皇は都を長岡京・平安京に遷都します。平安時代最初の天皇となりました。
飛鳥時代と奈良時代の相違点
飛鳥時代と奈良時代の相違点は、政治の中心が天皇から臣下に移ったことです。飛鳥時代は推古天皇や天智天皇、天武天皇、持統天皇など天皇が中心となって政治をおこないます。
しかし、奈良時代は律令という仕組みにのっとって天皇の下で、皇族や藤原氏が政治を司りました。
奈良時代の語呂合わせ
奈良時代で重要な年号について語呂合わせを作成しました。ぜひとも参考にしてみてください。
- 平城京遷都:「なんと(710)立派な平城京」
- 三世一身の法:「なにさ(723)、三代で取り上げか」
- 長屋王の変:「何食わぬ(729)顔で長屋王を滅ぼした藤原四子」
- 墾田永年私財法:「なじみ(743)の土地は、自分の物」
- 恵美押勝の乱:「泣き虫(764)の仲麻呂が起こした反乱」
奈良時代のまとめ
奈良時代の政治は、皇族と藤原氏の綱引きの歴史でした。天武天皇から続く皇親政治は長屋王の変で終わります。かわって、藤原不比等の子である藤原四子の政権が成立しましたが、四子が天然痘で亡くなることで政権が交代しました。
かわって政治を行ったのが橘諸兄。橘諸兄は聖武天皇の仏教中心の政治を支えました。その次に政権を取ったのは聖武天皇夫人である光明子を後ろ盾とした藤原仲麻呂です。
ところが、仲麻呂は孝謙上皇と対立。恵美押勝の乱を起こして政権から排除されました。孝謙上皇は淳仁天皇を退位させ、称徳天皇として重祚。僧侶の道鏡が称徳天皇の側近、太政大臣禅師として仏教政治をおこないます。
宇佐八幡宮神託事件で道鏡即位が失敗し、称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野薬師寺左遷されました。
前回の記事「大宝律令の制定と律令の内容について解説!文武天皇の時代について」
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