こんにちは。今回から受験生に役立つ現代史シリーズをはじめます。第十一回は戦後の中南米諸国。中南米諸国は主にスペインとポルトガルの植民地でしたが19世紀にその多くが独立します。しかし、大国アメリカの勢力圏として、しばしばアメリカの干渉を受けました。戦後の中南米諸国の歴史は、アメリカとの関連を抜きに語ることはできません
- アメリカはカリブ海政策を展開し中南米に露骨に干渉
- 棍棒外交、宣教師外交、善隣外交を誰が行ったか整理する必要あり
- 左派の代表的政権はチリのアジェンデ政権
- アルゼンチンのペロン政権は民族主義政権
- キューバ危機当時のアメリカのトップはケネディ、ソ連のトップはフルシチョフ
- キューバ危機は核戦争の危機
ソ連とアメリカが綱引きを展開した戦後の中南米諸国
(アジェンデを支援するデモ:wikiより)
19世紀末、アメリカは中南米諸国に対し露骨な干渉を繰り返しました。干渉の背景には「アメリカ大陸のことは、アメリカが決めるべき」とするモンロー宣言の拡大解釈があります。
セオドア=ローズヴェルト大統領は中南米、特にカリブ海地域を自国の裏庭と考え「カリブ海政策」を進めます。セオドア=ローズヴェルトは強引な棍棒外交を展開し、アメリカ=スペイン戦争によるキューバの保護国化やパナマ運河の開通などをおこないます。
その後、ウィルソン大統領は宣教師外交、フランクリン=ローズヴェルトは善隣外交を展開しますが、いずれもアメリカによる中南米への干渉という本質は変わりませんでした。
第二次世界大戦後、中南米諸国でも左派勢力(社会主義勢力)が力を増します。1950年代のエクアドルの左派政権や1959年に革命で親米勢力を追放したキューバ革命、チリのアジェンデ政権などは代表的な左派政権といえるでしょう。
ソ連は中南米にくすぶる反米感情を利用しつつ、左派勢力を支援します。アメリカはチリのピノチェト政権に代表される軍事独裁政権を支持。経済的に優位に立つ大土地所有者や資本家たちとともに左派性勢力を抑え込もうとしました。
これらの動きとは別に、アルゼンチンでは民族主義政権であるペロン政権が誕生しました。その後、親米政権が成立しますがフォークランド紛争でイギリスに敗北します。
(戦後の中南米諸国)
戦後の中南米諸国を揺るがしたキューバ危機
(海上封鎖宣言に署名するケネディ:wikiより)
中南米で起きた米中対立の中で、もっとも危険だったのがキューバ危機でした。キューバは1898年に独立国となっていましたが、実質はアメリカに従属する国です。
(キューバ地図)
対外貿易の75%、キューバ資本の90%がアメリカに依存する状態でした。バティスタ政権も親米的態度をとり、経済格差が非常に大きい国となります。
1959年、カストロとチェ=ゲバラを中心とする革命軍はアメリカに支援されたバティスタ政権軍と幾度も交戦します。バティスタ政権を打倒し、キューバにあったアメリカ資産を接収しました。
1961年、アイゼンハウアー政権はキューバと断交します。キューバ問題は次のケネディ政権に引き継がれます。1961年、亡命キューバ人によるキューバ侵攻を行いましたが失敗に終わります。(ビックス湾事件)
アメリカとの決定的な対立を受け、カストロはキューバの社会主義化を宣言します。その後、ソ連はキューバにミサイル基地を建設します。
1962年、アメリカはソ連によるキューバのミサイル基地建設を公表し、海上封鎖に踏み切りました。両国の緊張は極度に高まり、核戦争の危機が迫ります。
核戦争になる寸前の土壇場、ケネディはフルシチョフとホットラインで会談し、妥協点を探ります。その結果、アメリカがキューバに侵攻しないことを条件に、ソ連はキューバのミサイル基地撤去に応じました。
この一連の政治的・軍事的危機のことをキューバ危機といいます。キューバ危機後も、ソ連とアメリカは中南米で綱引きをつづけました。
まとめ
アメリカの裏庭ともいえる中南米諸国は、アメリカから強烈な干渉を受け続けました。特に、アメリカ本土に近いカリブ海はアメリカの「裏庭」とみなされ、親米政権がアメリカの援助で独裁を行うケースが目立ちました。
チリのアジェンダ政権やアルゼンチンのペロン政権のように、社会主義・民族主義的な政権も誕生しますが、アメリカは軍事クーデタを使嗾するなどして、政権を打倒します。
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