こんにちは。今回は現代史最後の回です。
戦後のソ連・東欧諸国。冷戦時代、ソ連は東欧諸国を衛星国化し社会主義圏を形成します。しかし、冷戦時代後期になると社会主義経済は行き詰まりを見せました。1985年、ソ連のゴルバチョフはペレストロイカを実施し、改革を志しますがうまくいきません。1989年におきた東欧革命で、東欧諸国はソ連の影響下から脱します。ソ連はマルタ会談でアメリカと対話し、冷戦を終結させました。
- スターリン時代、東欧諸国を衛星国化
- フルシチョフはスターリン批判を行った
- キューバ危機はフルシチョフ時代
- ブレジネフ時代は制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)が外交の基本スタンス
- アフガニスタン侵攻はブレジネフ政権の末期
- ゴルバチョフはペレストロイカとグラスノスチを実行
- グラスノスチ推進のきっかけはチェルノブイリ原子力発電所の事故
- マルタ会談で冷戦終結
- 東欧諸国はプラハの春に代表されるように、ソ連からの介入を受け続けた
- 1989年の東欧革命で社会主義政権が崩壊
- ルーマニア革命ではチャウシェスク大統領が処刑された
戦後、超大国としてアメリカと対峙したソ連
(第20回ソ連共産党大会:wikiより)
ヤルタ会談の直後から、ソ連のスターリンは積極的に自国の勢力圏の拡大を目指します。1945年から1948年にかけて、ソ連は東欧諸国を人民民主主義国として社会主義圏に取り込み、ソ連の衛星国としました。
西側諸国がマーシャル=プランやNATOを結成したことに対抗し、ソ連と東欧諸国はコミンフォルム(共産党情報局)や経済相互援助会議(コメコン)、ワルシャワ条約機構を結成します。
1953年、スターリンが死去するとブルガーニン政権を経てフルシチョフがソ連のトップに立ちました。
フルシチョフは第20回党大会でスターリン批判を行い、東西の雪解けを演出します。しかし、キューバ危機を引き起こしてしまいます。
また、スターリン批判は東欧諸国の反ソ暴動や中ソ対立を引き起こしてしまいました。そのため、1964年に解任されてしまいます。
フルシチョフの後でソ連の実権を握ったのがブレジネフでした。ブレジネフは制限主権論を唱え、社会主義全体の利益は一国の主権に優越するというブレジネフ=ドクトリンを出し、東欧諸国への締め付けを強化します。
また、ブレジネフ時代には中国との関係が決定的に悪化します。ブレジネフ政権末期、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻しますが、この戦争はソ連経済に大きなダメージを与えました。
フルシチョフ | スターリン批判、キューバ危機 |
ブレジネフ | 制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)、アフガン侵攻 |
ペレストロイカの失敗とソ連の崩壊
(ソ連最高評議会:wikiより)
ブレジネフ時代、ソ連の政治・経済は硬直化していました。アフガニスタン侵攻はソ連経済に大きな重荷となります。
アンドロポフ、チェルネンコが短期間政権を担当したのち、1985年にソ連のトップである書記長に就任したのがゴルバチョフでした。ゴルバチョフはソ連経済を立て直すためペレストロイカを実施します。ペレストロイカについて詳しくは「東西両陣営の動揺と冷戦の終結」を読んでください。
その矢先の1986年、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生しました。事故により大量の放射線が広範囲に拡散しましたが、ソ連はこの事故の隠ぺいをはかります。国際社会の批判を受けたゴルバチョフは情報公開(グラスノスチ)をより一層進めるようになります。
1989年、ゴルバチョフはアメリカのブッシュ大統領と地中海のマルタで会談します。冷戦の終結を宣言しました。
1990年、ゴルバチョフはソ連の大統領に就任。改革を進めようとします。しかし、バルト3国が独立を宣言したことでゴルバチョフは窮地に陥りました。
ゴルバチョフのやり方に反発を強めていた保守派は、バルト3国に対し軍事介入しないゴルバチョフに業を煮やし、反ゴルバチョフクーデタを実行しました。
(ソビエト連邦構成共和国の地図:1.ロシア、2.ウクライナ、3.白ロシア(ベロルシア)、4.ウズベク、5.カザフ、6.グルジア、7.アゼルバイジャン、8.リトアニア、9.モルダビア、10.ラトビア、11.キルギス、12.タジク、13.アルメニア、14.トルクメン、15.エストニア)
この時、ロシア共和国のトップだったエリツィンが、市民とともに保守派のクーデタを失敗に追い込みます。ゴルバチョフは解放されましたが、完全に政治力を失いました。
1991年8月、ソ連共産党が解散します。12月にソヴィエト連邦が解体され独立国家共同体が生まれます。1999年にエリツィンが引退すると、2000年からはプーチンがロシア大統領として国を指導しました。
ペレストロイカ、チェルノブイリ原発事故、グラスノスチ
・エリツィン
ソ連共産党解散(1991年)
・プーチン
戦後の東欧諸国の動向
(プラハの春:wikiより)
第二次世界大戦中、東欧諸国はナチス・ドイツの占領下におかれました。ソ連軍はドイツ軍に反撃しつつ、東欧諸国を占領します。
1945年から1948年にかけて、東欧諸国はソ連の衛星国とされました。それを推進したのがソ連の指導者であるスターリンです。
(鉄のカーテン:wkiより)
1953年、スターリンが死去。1956年にフルシチョフがスターリン批判を行ったことから、東欧諸国では自立化の動きが活発になります。この時、ポーランドやハンガリーでは反ソ暴動が起きますが、ソ連によって鎮圧されました。
1968年、チェコスロヴァキアの首都プラハで、「チェコ事件」(プラハの春)とよばれる事件がおきます。チェコスロヴァキアが自主的な政治を行うとしたのをソ連が鎮圧したものでした。
以後、ブレジネフ政権の制限主権論のもと、東欧諸国の自立性は抑制され、ソ連に対する反発が高まります。また、同時に経済も停滞していきました。
1986年からソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカが始まります。東欧諸国では再び自立化の動きが起き始めました。
東欧諸国で一気に自立の動きが起きたのは1989年。ハンガリーの複数政党制容認を皮切りに、ポーランドでは連帯が合法化。東ドイツではホネカーが解任され、ベルリンの壁が解放されます。11月、チェコスロヴァキアで共産党のトップが辞任しました(ビロード革命)
東欧革命を締めくくるのは12月のルーマニア革命。過激化したデモ隊とルーマニア政府軍が銃撃戦となり、チャウシェスク大統領が失脚。処刑されてしまいました。
1990年には東西ドイツが統一するなど、冷戦構造は完全に崩れ東欧諸国は西側諸国と急速に接近。徐々にEUに加盟していくようになりました。
まとめ
ソ連ではスターリン以後も共産党による一党独裁体制が続きました。スターリンの死後、フルシチョフはスターリン批判を行いましたが、かえって社会主義陣営の団結を崩すことになります。
ブレジネフ時代、ソ連国内の政治は安定しますが、東欧諸国は軍事的圧力にさらされソ連への従属を強いられます。また、ブレジネフ時代末期のアフガニスタン侵攻はソ連経済に大打撃を与えます。
ゴルバチョフがペレストロイカでソ連経済を立て直そうとしましたが、時すでに遅く、ソ連の崩壊を食い止めることができません。1989年、東欧諸国で東欧革命がおき、軒並み社会主義政権が崩壊。ソ連も1991年に崩壊しました。
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