こんにちは。今回は戦後の中国と朝鮮半島の歴史について述べていきます。
中国を中心とする東アジア諸国は、第二次大戦後に急成長を遂げます。しかし、その過程は決して安楽なものではありませんでした。中国では内戦や文化大革命などの大変動が起きます。朝鮮半島も朝鮮戦争という全土が灰になるような悲惨な戦争後に経済成長を成し遂げました。
今回は、東アジア全体の国際情勢と、現代中国の歴史、現代朝鮮半島の歴史などについてまとめます。
- 国共内戦の結果、中国本土で中華人民共和国、台湾に中華民国が成立
- 朝鮮戦争は引き分けに終わり、北緯38度線を軍事境界線とした
- 中ソ対立は珍宝島(ダマンスキー島)事件でピークに達した
- 冷戦終結後も中国は改革開放路線を継続
- 建国当初の中華人民共和国の国家主席は毛沢東、首相は周恩来
- 大躍進政策の失敗後、国家主席には劉少奇が就任
- プロレタリア文化大革命で劉少奇や鄧小平は失脚。林彪や四人組が権力掌握
- 1980年代、鄧小平が復活し改革開放路線で中国経済を急成長させる
- 朝鮮戦争は1950年から53年まで続いた
- 韓国は朴正煕大統領の時代、日韓基本条約を締結
戦後の東アジアの国際関係
(中華人民共和国建国宣言:wikiより)
第二次世界大戦終結後、中国で国民党と共産党による国共内戦が始まりました(国共内戦)。アメリカは国民党の蒋介石を、ソ連が共産党の毛沢東をそれぞれ支援します。
国共内戦の結果、毛沢東が勝利します。1949年に北京で中華人民共和国の樹立を宣言しました。敗れた蒋介石は日本が放棄した台湾に逃れ、中華民国を存続させます。
1950年、朝鮮戦争が勃発するとソ連と中国は北朝鮮を支援します。一方のアメリカは国連軍として朝鮮半島に乗り込み、韓国を支援しました。朝鮮戦争は1953年に停戦となり、北緯38度線を軍事境界線として停戦します。
フルシチョフのスターリン批判以来、中国とソ連の対立が目立ち始めました。1969年、珍宝島(ダマンスキー島)事件ではアムール川(中国語名は黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島(中国語名は珍宝島)の領有権を巡って交戦した両軍が武力衝突します。中ソ対立の緊張がピークに達しました。
(珍宝島事件周辺地図:wikiより)
1971年、泥沼化したベトナム戦争に苦慮するアメリカは中国と関係を改善します。中国側もソ連と対立を深めたことから歓迎します。中華人民共和国が国際連合の代表権を持つことを認め、米中関係改善に動きます。1972年にはニクソン大統領が中国を電撃訪問しました。日本も中国と関係を改善し日中共同声明を発します。
1979年以降、中国は改革開放路線に転じ市場経済の導入により経済立て直しを図りました。1991年のソ連崩壊後も、中国は改革開放路線を継続します。
戦後の中国
(文化大革命期の映画:wikiより)
国共内戦に勝利した毛沢東は党主席と国家主席を兼ね、中国の最高指導者となりました。首相には腹心の周恩来が就任します。詳しくは「毛沢東の大躍進政策から鄧小平の改革開放政策まで【世界史B】」も参考にしてください。
毛沢東は1953年から第一次五カ年計画を発動し社会主義経済を推し進めました。
1958年、毛沢東の肝いりで第二次五カ年計画(「大躍進」運動)が始まりました。人民公社設立による農業の集団化と、鉱工業生産の向上がはかられました。
(中国地図:wikiより)
しかし、強引な「大躍進」政策は成果を上げるどころか様々な弊害を生みます。特に、1959年から1961年にかけて、中国は深刻な食糧難となり2000万人前後の人々が餓死したといいます。
1959年、毛沢東の国家主席辞任を受け、劉少奇が国家主席に就任。毛沢東は引き続き党主席にとどまりました。劉少奇は鄧小平らとともに毛沢東路線を修正。経済の立て直しを図ります。
1966年、毛沢東が主導するプロレタリア文化大革命(文革)が始まりました。毛沢東を熱烈に支持する学生は「紅衛兵」を組織。劉少奇や鄧小平などを資本主義に傾斜した「走資家」だとして批判。権力から追い落としました。
毛沢東と林彪、毛沢東夫人である江青ら四人組らは、紅衛兵の動きを利用して権力を奪取します。
(若かりし日の江青:元映画スターでした)
1971年に林彪は死去しましたが、江青ら四人組は毛沢東が死去する1976年まで権力を握り続けました。
毛沢東の死後、四人組は失脚します。華国鋒が権力を握りました。華国鋒らは「四つの現代化」を推進すると表明します。1981年、文革で失脚していた鄧小平が復活し権力を握りました。
鄧小平は中国の最高指導者として1980年代の国政を主導し、改革開放路線を打ち出します。1992年には鄧小平は南巡講話をして改革開放路線を強化していきます。現在の中国が資本主義的要素を帯びているのはこの時期から始まったと言われています。
1989年、改革派とみなされていた胡耀邦前総書記の死去を悼む学生らによって追悼集会が行われました。追悼集会は自由と民主化を求める動きへと変化。学生らは天安門広場で集会を開きました。
鄧小平は軍に学生排除を命じ、実力で鎮圧しました。これが天安門事件(第二次)ですね。
鄧小平の死後、中国の最高権力は江沢民、胡耀邦と引き継がれ現在の習近平に至ります。
戦後の朝鮮半島
(破壊されたソウル市内:wikiより)
1945年、日本が降伏し朝鮮半島から撤退すると、北半分をソ連が、南半分をアメリカが占領しました。
1948年、半島南部に李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)が成立させます。同じ年に半島北部に金日成を首席とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しました。
1950年、北朝鮮軍が南北の境界線を突破し、朝鮮半島南部に侵攻。朝鮮戦争が始まりました。韓国には国連軍としてアメリカが直接支援。一方の北朝鮮には中国人民義勇軍が参戦します。この戦いで朝鮮半島全土が焦土と化しました。
1953年、韓国、北朝鮮、アメリカ、中国の代表が板門店に集まり、朝鮮休戦協定を締結。北緯38度線を両国の軍事境界線とすることで合意しました。
1965年、韓国ではクーデタで大統領となった朴正熙が日韓基本条約を締結。これによって得た資金などを使い、「漢江の奇跡」とよばれる経済成長を達成します。1988年にはソウルオリンピック開催にこぎつけました。
北朝鮮では金日成による社会主義独裁政権が成立。金日成の死後は金正日、金正日の死後は金正恩が北朝鮮の政権を引き継ぎました。
まとめ
第二次世界大戦末期から始まった冷戦の構造は東アジアでも展開されました。国共内戦に勝利した中国は社会主義国として経済発展を図りますが挫折。文化大革命の混乱を経て、鄧小平による改革開放政策で経済を急成長させました。
1950年の朝鮮戦争は東西冷戦が、実際に戦火を交える熱戦へと転じた例でした。1953年、朝鮮戦争は北緯38度線を軍事境界線とする休戦協定により停戦します。
朝鮮戦争後、焦土と化した韓国経済を立て直したのが朴正煕でした。朴正煕は日韓基本条約を結び日本から復興資金を得ると、産業インフラなどを復興し韓国経済を躍進させました。
一方、北朝鮮では金日成率いる朝鮮民主主義人民共和国が成立。金日成の権力は子の金正日、孫の金正恩に引き継がれます。
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