こんにちは。今回は近代以降の欧米経済思想史について重商主義からドイツ関税同盟まで語ります。
まず、大航海時代から絶対王政にかけての時代、ヨーロッパ諸国は自国に富を蓄積するため、重商主義を展開します。
重商主義の行き過ぎに対し、重農主義や古典派経済学は自由な経済活動を認めるよう主張しました。19世紀に入ると時代を動かす主役は王侯貴族から産業資本家・ブルジョワジーの手に移りました。
他国に先駆け産業革命を達成したイギリスは、自由放任経済・自由貿易などをしゅちょうする古典派経済学の立場をとります。それに対し、後進地域であったドイツでは外国製品から自国産業を守るためドイツ関税同盟が結成されました。
・重商主義には、重金主義・貿易差額主義・産業保護主義の3つの段階がある
・重農主義者や古典派経済学者らは、自由な経済活動や自由貿易を主張した
・19世紀、イギリスやフランスでは古典派経済学が隆盛
・同じころ、ドイツでは保護貿易を意図したドイツ関税同盟が結成
17・18世紀の欧米経済思想
(アダム=スミス:wikiより)
17世紀から18世紀の絶対王政の時代、ヨーロッパ諸国はいかにして国家財政の黒字を増やすかに腐心しました。
重商主義とは
重商主義とは絶対王政時代にヨーロッパ諸国が行った経済政策といいます。黒字財政を確立するため、輸出の促進や輸入の制限などを行い、国内産業の保護・育成につとめました。
重商主義には三つの段階があります。一つ目は重金主義。国内の鉱山や植民地から金銀を獲得することで、国が保有する金銀を増やす考え方です。大航海時代のスペインが典型的ですね。
二つ目の段階は貿易差額主義。輸入よりも輸出を増やすことで貿易黒字を生み出し、国家の収入を増やそうという考え方です。フランスのコルベールが推進したので、コルベール主義ともいわれますね。
三つ目の段階は産業保護主義。外国からの輸入を制限し、自国の産業をそだて輸出競争力をつけさせる考え方です。ドイツや日本など、あとから産業革命を達成した国々は産業保護主義を採用し、国内産業の育成に努めました。
貿易や商業を重視する重商主義に対し、富の源泉を農業に求めたのが重農主義。国家があらゆる産業を統制する保護貿易に反対する立場をとります。
18世紀後半、イギリスのアダム=スミスは経済活動の自由放任主義や統制を加えない自由貿易を主張します。アダム=スミスの考え方を古典派経済学といいました。
19世紀の欧米経済思想
(フリードリヒ=リスト:wikiより)
19世紀に入ると、市民革命がヨーロッパやアメリカなど大西洋沿岸諸国で発生します。ブルジョワジーや産業資本家が社会全体を引っ張るようになります。
資本家たちは国家による経済への過度な介入を嫌います。そのため、経済学の世界では古典派経済学が隆盛しました。
アダム=スミスが創始した古典派経済学を引き継いだのが、イギリスのリカードでした。リカードは国ごとに得意なことを分担し、自由に貿易することで経済活動が活発化すると主張します。
マルサスは貧困の原因を人口の増加に求めます。最終的に古典派経済学を大成させたのはジョン=ステュアート=ミルでした。
イギリスやフランスに比べ、19世紀のドイツは後進的地域でした。ドイツ帝国によって統一されるまで、数多くの領邦国家の寄り合い所帯で政治的にも経済的にも分裂していたからです。
19世紀前半のドイツの経済学者フリードリヒ=リストは、国力が弱いドイツ諸国で自由貿易を行えば、外国商品との競争に負けてしまうと考えました。リストはドイツの実情に合っているのは保護貿易であると考えます。
1834年、北ドイツで勢力を増した新興国であるプロイセン王国を中心にドイツの18の国と地域がドイツ関税同盟を結成します。関税同盟内では、域内関税を廃止し、非加盟国に対して共通関税をかけ、域内産業の保護をはかりました。
国や地域の保護によりドイツ産業は急速に勃興。ドイツ産業革命の基礎を作り上げました。ドイツ関税同盟が作り出した基礎は、ドイツ帝国に引き継がれます。
まとめ
絶対王政時代、国府を増やす経済思想として重商主義が盛んに主張されました。重金主義や貿易差額主義、産業保護主義などにより蓄積された富は絶対王政を維持するために使われました。
市民革命がおき、時代の主役が資本家やブルジョワジーに移ると、自由な経済活動を肯定する古典派経済学が盛んになりました。
その一方、産業の育成が遅れていたドイツや日本では、外国から入ってくる商品に高関税をかけ、国内産業を保護する保護貿易が有効な状態でした。ドイツでは1834年にリストの提唱によりドイツ関税同盟が結成されます。
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