今回は高度経済成長期前後から平成にかけての政治・経済について解説します。
1960年に締結された新安保条約や佐藤栄作政権時に締結された日韓基本条約など、戦後の外交も取り扱いました。
最後には語呂合わせや入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。
この記事からわかること
・高度経済成長期から平成までの政治・経済・外交の主な出来事
新安保条約
(安保闘争:wikiより)
鳩山一郎内閣では日ソ共同宣言が締結され、日本はついに国際連合への加盟を果たします。いずれも1956年の出来事です。日本の国連加盟に反対していたソ連が支持に回ったことで、加盟が実現しました。
続く石橋湛山内閣は、首相の病気により短命に終わります。
代わって首相の座に就いたのは、岸信介です。岸内閣では、1960年に日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)が締結されます。
1951年に締結された日米安全保障条約では、アメリカは日本を守らないことになっていたのに対し、新安保条約ではアメリカの日本防衛義務が明文化されました。
しかし、なかには新安保条約に反対した人々がいます。彼らはデモにより、反発の声をあげました。これを安保闘争といいます。新安保条約成立後、岸内閣は総辞職しました。
高度経済成長
(池田勇人:wikiより)
世界的な好景気に影響を受けた日本は、1950年代半ばから景気がよくなります。とくに1955~57年の好景気が神武景気です。
このほか、1958~61年の岩戸景気・1964年に行われた東京五輪前後のオリンピック景気・1966~70年のいざなぎ景気もおさえておきましょう。
日本は、米の大豊作により、食糧難を脱出し、1956年の経済白書には「もはや、戦後ではない」と記されました。
1960年7月から首相を務めた池田勇人は、「寛容と忍耐」を唱えて安保に反発していた革新勢力との正面からの対立を避けると同時に、高度経済成長政策を行います。まず、国民の所得を2倍にすることを目指した所得倍増計画を打ち出しました。
また、政経分離の方針を掲げ、当時国交がなかった中国とLT貿易を開始します。
さらに日本は、1964年にIMF8条国に移行します。これにより、国際収支の悪化を理由に為替制限ができなくなりました。
同年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟します。ここでは、資本の自由化が義務づけられました。つまり、外国の資本が日本へ自由に入るようになるというわけです。
こうして日本は、晴れて先進国の仲間入りを果たすことになります。1960年代後半以降、日本では貿易黒字が続き、1968年にはGNP(国民総生産)が資本主義国のなかで2位になりました。
一方、全国各地で公害問題が勃発し、新潟水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病・水俣病の被害をめぐる四大公害訴訟がスタートします(結果はすべて被害者側の勝訴)。
政府は公害問題に対処するため、1967年に公害対策基本法を制定したほか、1970年には環境庁を発足させました。
戦後の外交処理&高度経済成長の終焉
(佐藤栄作:wikiより)
池田に代わり、首相を務めたのが佐藤栄作です。佐藤内閣では、外交に関する3つの出来事を覚えておいてください。
1つ目は、1965年の日韓基本条約です。これにより、韓国との国交が回復されました。2つ目は、1968年の小笠原諸島返還です。3つ目は、1969年の日米共同声明で、これに伴い、1972年に沖縄が返還されたことをおさえておきましょう。
続く田中角栄内閣では、1972年の日中共同声明により、中国との国交も回復します。
また翌1973年には、第4次中東戦争がきっかけとなって第一次石油危機が起き、日本ではトイレットペーパーが品不足になるなどパニック状態になりました。1974年には戦後初のマイナス成長となり、高度経済成長は終焉を告げます。
続く三木武夫内閣では、1976年にロッキード事件が起きました。ロッキード事件とは、アメリカ・ロッキード社の航空機売り込みをめぐる汚職事件です。この事件では田中角栄前首相らが逮捕されました。
直後の選挙で自民党が過半数割れの大敗を喫し、その責任を取り、三木内閣は退陣に追い込まれます。
福田赳夫内閣では、1978年に日中平和友好条約が締結されたことを覚えておいてください。
後を受けた大平正芳内閣は、消費税の導入を検討し始めます。しかし実現されたのは、平成に入った1989年の竹下登内閣のときでした。当時は3%の税率で開始されました。
冷戦終結&55年体制の崩壊
(ベルリンの壁:wikiより)
1989年11月、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊します。同年12月のマルタ会談で、ブッシュ・ゴルバチョフ米ソの両首脳が共同で冷戦終結を宣言し、ついに冷戦は終わりを迎えました。
日本では、竹下登・宇野宗佑・海部俊樹・宮沢喜一と次々に首相が交代します。
1993年の衆議院議員総選挙では、自民党が過半数割れの大敗を喫し、細川護熙を首相とする自民8党派の連立政権(共産党を除く)が発足しました。ここで55年体制が崩壊を迎えたわけです。
後を受けた村山富市内閣では、1995年に阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が発生し、社会が混乱しました。
続く橋本龍太郎政権時の1997年には、消費税を5%に引き上げられます。しかし、アジア諸国の通貨・金融危機が重なり、景気が後退しました。
小渕恵三内閣をはさみ、小泉純一郎内閣では、当初国営で行われてきた郵政事業を民営化する政策が行われます。これが郵政民営化です。
その後、安倍晋三・福田康夫・麻生太郎が首相を務め、2009年の衆議院議員総選挙での自民党敗北により政権が交代し、民主党政権へと移ります。しかし2012年には再び自民党が政権を奪還し、安倍晋三首相の長期政権になりました。
消費税は、2014年には8%、2019年には10%に引き上げられ、時代は令和へと移っていくことになります。
今回の範囲はここまでです。続いて語呂合わせ・入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。
語呂合わせ
ここでは今回登場した重要なキーワードにまつわる語呂合わせを紹介しています。年号の暗記にお役立てください。
入試問題にチャレンジ
ⓓ<高度経済成長期>に入ると、国民の生活水準は大きく向上しはじめた。1960年、「寛容と忍耐」を唱えて登場した当時の内閣は新たな経済計画を発表し、国民に経済成長の長期的なビジョンを与えた。実際には、オリンピック景気、いざなぎ景気が到来して、この計画の目標は予定より早く達成された。他方で、公害など経済成長のひずみも無視しえなくなった。
結局、高度経済成長の時代は、1971年のドル=ショック(ニクソン=ショック)や、1973年の石油危機などによって終わりを告げたが、1980年には世界の国民総生産総計に占める日本の比率が約10%に達し、日本は「経済大国」となった。
問 下線部ⓓに関連して、この時期の日本の外交について述べた文として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。
① 岸信介内閣は、アメリカと交渉し、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印した。
② 池田勇人内閣は、沖縄に関する対米交渉を進め、沖縄返還の合意にいたった。
③ 佐藤栄作内閣は、韓国との国交正常化交渉を推進して、日韓基本条約に調印した。
④ 田中角栄内閣は、首相自ら訪中して日中国交正常化を実現した。
まとめ
今回は高度経済成長から現代までの政治・経済・外交について解説しました。
この記事を読んで大まかな流れを理解していただければ幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「戦後の政治についてわかりやすく解説(GHQ・55年体制など)【日本史第80回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「戦時中・戦後の文化についてわかりやすく解説【日本史第82回】」
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