今回は、大戦景気から昭和恐慌までの流れを詳しく解説します。
経済の動向はもちろん、関東大震災・第二次護憲運動・山東出兵など、大正末期から昭和初期にかけて起こった出来事についても取り扱いました。
最後には語呂合わせや入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。
この記事からわかること
・第一次世界大戦から昭和初期にかけての経済の動向
・大正末期から昭和初期の出来事(第二次護憲運動・山東出兵など)
大戦景気から恐慌の時代へ
(山本権兵衛:wikiより)
第一次世界大戦により、日本は大幅な輸出超過になります。これが大戦景気です。
工業労働者の数は100万人を超え、工業生産額が農業生産額を上回りました。1914年には11億円の債務国だったにもかかわらず、1920年には27億円以上の債権国となります。
このように景気はよくなった一方、労働者の賃金は上がらず、物価が高騰したため、生活に苦しむ民衆も多く存在しました。
戦争が終わると景気が悪化し、戦後恐慌に陥ります。
1923年9月1日、関東大震災が発生すると不景気に拍車がかかり、銀行は手持ちの手形が決済不能になり、経営状態が悪化しました。
第二次護憲運動
(加藤高明:wikiより)
不景気のさなか、山本権兵衛の後任として首相の座に就いた清浦奎吾は、超然主義にもとづき、内閣を作ります。
しかしこれに対して憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派が反発し、第二次護憲運動が始まりました。護憲運動反対派は政友本党を結成して抵抗したものの、選挙では護憲派の圧勝に終わります。
こうして憲政会総裁の加藤高明を首相とする護憲三派の連立内閣が発足しました。加藤内閣は1925年に普通選挙法を成立させます。普通選挙法により、25歳以上の男子全員に選挙権が付与されました。
また同年には治安維持法が制定されます。この法律により、国の体制を変えようとする動きを取り締まるとともに、私有財産制度の否認を目的とする結社を禁止し、共産主義者・社会主義者の運動を弾圧しました。
金融恐慌
(若槻礼次郎:wikiより)
護憲三派が分裂し、憲政会だけの単独内閣になり、時代は昭和へと移ります。加藤高明が亡くなり、後任として若槻礼次郎が首相の座に就きました。引き続き憲政会の内閣です。
銀行の状態はどんどん悪化し、1927年に金融恐慌が発生します。片岡直温蔵相の失言をきっかけに、一部の銀行の不良な経営状態がバレてしまい、取付け騒ぎが勃発し、銀行が相次いで倒産・休業に追い込まれました。
若槻内閣は、経営が破綻した鈴木商店に多額の融資をしていた台湾銀行の救済を図ったものの、枢密院からの反対にあいます。
なぜでしょうか?それは当時の外相だった幣原喜重郎による協調外交が不満だったからです。若槻内閣をつぶそうとしたわけですね。
結局台湾銀行は倒産を免れたものの、救済できなかったことから、若槻内閣は総辞職します。
続いて発足した田中義一内閣は、モラトリアム(支払猶予令)を出し、3週間だけ銀行からお金を下ろすのをやめさせました。こうして、金融恐慌を落ち着かせることに成功したわけです。
山東出兵
(張作霖:wikiより)
田中内閣では、モラトリアムの施行・第1回普通選挙の実施以外に重要な出来事があります。山東出兵です。満州の張作霖を保護することを目的に行われました。
背景には、中華民国政府のトップ、蒋介石による北伐(1926~28)があります。蔣介石は、張作霖に日本と仲良くするのをやめさせるため、満州に兵隊を送り込んだのです。
これに対して日本も当然北伐をやめさせるべく出兵します。
その結果、満州某重大事件が起き、張作霖は関東軍に殺害されました。関東軍は、満州にいた日本の軍隊です。
当初張作霖を保護するために出兵をしたはずなのに、なぜ張作霖を殺してしまったのでしょうか?
それは、関東軍の考えが変わったからです。張作霖を排除して、満州を日本の領土にしたほうがいいと考えるようになったわけですね。
しかし、満州の占領には失敗した挙句、日本軍が張作霖を殺害したこともバレてしまい、田中内閣は天皇の信頼まで失います。結局田中内閣は総辞職に追い込まれました。
昭和恐慌
(浜口雄幸:wikiより)
憲政会と政友本党が合体してできた立憲民政党内閣ができ、浜口雄幸が首相になりました。
まず、1917年以来禁止していた金輸出を解禁します。
しかし、大蔵大臣井上準之助が日本の金の価値を高く設定してしまったが故に、日本の品物が割高になってしまいました。
しかもちょうどそのころ、世界は1929年に始まった世界恐慌により、不景気の真っただ中だったため、日本は二重の打撃を受けます。これが昭和恐慌です。
浜口内閣は金輸出解禁のほか、ロンドン海軍軍縮条約の締結も行います。ロンドン海軍軍縮条約では、イギリス・アメリカ・日本とのあいだで補助艦総保有量の比率が定められました。
しかし、海軍軍令部の反対を押し切って条約を結んだため、浜口首相は批判を浴びます。(統帥権干犯問題)最終的に浜口首相は東京駅で狙撃され死亡し、若槻礼次郎が首相に復帰しました。
今回の範囲はここまでです。続いて入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。
語呂合わせ
ここでは今回登場した重要なキーワードにまつわる語呂合わせを紹介しています。年号の暗記にお役立てください。
入試問題にチャレンジ
下線部ⓑ(1920年代から30年代初頭にかけて)に関連して、この時期の経済に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の①~⑥のうちから一つ選べ。
Ⅰ 濱口雄幸内閣によって金解禁が断行されたが、同じころ世界恐慌が日本にも波及した。
Ⅱ 片岡直温蔵相の失言をきっかけに、金融恐慌が起こった。
Ⅲ 関東大震災により、決済不能になったとみなされる震災手形が現れた。
① Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ ② Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ ③ Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ
④ Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ ⑤ Ⅲ-Ⅰ-Ⅱ ⑥ Ⅲ-Ⅱ-Ⅰ
まとめ
今回は大戦景気から昭和恐慌までを見てまいりました。
本記事で解説した1920~30年代初頭は、一言でいえば不景気の時代です。銀行や会社は次々とつぶれ、政府は金輸出解禁を断行するも失敗に終わり、昭和恐慌を招く結果となりました。
政治面では、普通選挙法により25歳以上の男子全員に選挙権が与えられた一方、治安維持法で社会主義運動の取り締まりが行われたことをおさえておきましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「大正時代の文学・文化についてわかりやすく解説【日本史第76回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「日中戦争についてわかりやすく解説【日本史第78回】」
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