こんにちは。今回は元、明、清の中国思想史のまとめをします。各時代の思想家のみならず訪中外国人について一覧表でまとめます。
モンゴル人が支配する元代では漢人が重視する儒学はあまり振るいませんでした。儒学の研究が盛んになるのは明代以降のことです。また、世界帝国となった元の時代には多くの外国人が中国を訪れました。明や清の時代にはイエズス会士が中国を訪れ、中国に西洋技術を伝えます。
それでは、みていきましょう!
今回の記事のポイント・永楽帝の編纂事業である『四書大全』と『五経大全』は入試必出
・陽明学のキーワードは心即理・致良知・知行合一
・清代の考証学は古典や文献を研究する学問、黄宗羲以外は清朝との衝突を避ける
・清末の公羊学は康有為とセットで出題
・元を訪れた使節は、人名だけではなく誰によって派遣されたかも要注意
・『坤輿万国全図』と『皇輿全覧図』は全く別物。混ぜるな危険
・カスティリオーネは円明園とセット。乾隆帝とのつながりにも注目
元から清までの思想史
(永楽帝:wikiより)
モンゴル人の王朝である元は儒学や儒学を基礎教養とする士大夫層をあまり重視しませんでした。科挙もほとんど実施されません。そのため、元の時代は儒教が振るわない時代でした。
明の時代になると、永楽帝が『四書大全』や『五経大全』の編纂を命じます。永楽帝は『四書大全』や『五経大全』を科挙の基準としました。
官学化し沈滞する朱子学に対し、王陽明が開いた陽明学は明の時代に花開きます。陽明学で重視されたのは実践でした。客観よりも主観を重視し、自分の中にある良知を実現する知行合一が重要とされます。
清代には、客観性を重視する考証学が隆盛しました。考証学では、清王朝を批判すると厳しい弾圧を受けたので、政治批判を避け、古典の字句解釈が中心となりました。ただし、清王朝に仕官しなかった黄宗羲は清王朝の専制政治を批判していますね。
清末には経世致用を唱え、社会改革を行おうとした公羊学が現れます。代表的な公羊学者である康有為は光緒帝のもとで戊戌の変法を実行しようとします。しかし、西太后ら保守派の妨害にあい、失敗しました。
元から清までに中国を訪れた外国人
(カスティリオーネ:wikiより)
元の時代、儒学など中国伝統の学問は不振でしたが、世界各地との交流は盛んにおこなわれました。モンゴル帝国や元が世界帝国だったからです。
イスラーム勢力と戦っていたローマ教皇庁やヨーロッパ諸国は十字軍を起こし中東に遠征するだけではなく、元に使節を派遣しています。カルピニの訪問先はカラコルム、コルヴィノは大都ですよ。
フビライに仕えたマルコ=ポーロは、『東方見聞録』(『世界の記述』ともいわれます。入試では両方出てきます)の中で、ヨーロッパ人にとって未知の世界だった東洋を紹介しました。黄金の国ジパングの伝説が生まれるのは『世界の記述』で紹介されたからですね。
『東方見聞録』はマルコ=ポーロがジェノヴァの獄中で口述筆記し、死後出版されたと言われています。
明や清の時代にはイエズス会宣教師が中国を訪れます。彼らは修道士であるだけではなく、様々な分野の専門家でもありました。
マテオ=リッチが刊行した『坤輿万国全図』は北京を0度とした世界地図で、ユーラシア大陸やアフリカ大陸だけではなく、南北アメリカも描かれた世界地図でした。
ブーヴェの『皇輿全覧図』は中国最初の実測図。清王朝やその周辺地域で測量してつくられました。
カスティリオーネは雍正帝や乾隆帝時代の人物です。このころ、中国ではキリスト教の布教が禁じられていました。カスティリオーネは宣教師としてではなく、画家・技術者として清王朝の宮廷に仕えました。
カスティリオーネが設計した北京郊外の離宮である円明園は、アロー戦争の時にイギリス・フランス連合軍によって破壊されてしまいます。
まとめ
宋までと比べ、元以降は新しい学問が現れにくくなります。明や清の時代、学問をリードしたのは永楽帝や康熙帝、雍正帝、乾隆帝といった皇帝たちでした。
また、ヨーロッパから渡来したイエズス会宣教師たちは、技術者として明や清の宮廷で重用されます。
文物や人名、特徴などで混同しやすいものが多いのも特徴なので、一つ一つ、表を使って区別することが高得点への鍵となるでしょう。
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