今回は第二次世界大戦からポツダム宣言までの大まかな流れを解説します。
第二次世界大戦中に行われた新体制運動・仏印進駐をはじめ、第二次世界大戦でもとくに重要な位置づけであった太平洋戦争についても取り扱いました。
最後には入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みください。
この記事からわかること
・1939年、アメリカは日本に日米通商航海条約破棄を通告し、翌年失効した。
・近衛文麿首相を中心として新体制運動が行われた結果、大政翼賛会が結成された。
・日本は、援蒋ルート遮断とアジアの南進を目的に、フランス領インドシナ(仏印)に進駐した。
・日本が真珠湾を奇襲攻撃したことをきっかけに、太平洋戦争が始まった。
・1942年のミッドウェー海戦での大敗を機に、日本は不利な状況に追い込まれた。
・1945年に、日本はポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えた。
第二次世界大戦
(独ソ不可侵条約:wikiより)
1939年、アメリカは日本の中国侵略に対する抗議として、日米通商航海条約の破棄を通告します。翌年に日米通商航海条約が失効して以降、アメリカは石油など戦略物資の輸出禁止や資産凍結により、対日経済制裁を強化していきました。
また同年には、ポーランド侵攻&対英仏戦を見据えたドイツが、突如ソ連と独ソ不可侵条約を締結します。国際情勢の急変に対処できないとして平沼騏一郎内閣は総辞職し、代わって阿部信行が首相に就任しました。
時を同じくしてドイツがポーランドに侵攻し、ついに第二次世界大戦勃発です。阿部と後任首相の米内光政は、第二次世界大戦には介入しない方針をとったことから軍部の反対を受け、短命内閣に終わりました。そして再び近衛文麿が首相の座に就きます。
新体制運動と仏印進駐
(仏印進駐:wikiより)
第二次近衛文麿内閣での主な出来事を順番に見ていきましょう。
まずは、新体制運動です。ドイツのナチスにならって国民組織を結成しようとした運動のことを指します。新体制運動により、成立したのが大政翼賛会です。
大政翼賛会と聞くと一つの政治団体のように思われる方もいるかもしれませんが、違います。正しくは、全国の政治団体・婦人会・町内会・部落会・隣組を傘下とする機関です。
上の者の意向が下の者に伝わる、いわゆるトップダウンの体制が特徴でした。大政翼賛会の下には、ほかにも労働組合の解散に伴い、結成された大日本産業報国会などがあるので、覚えておいてください。
次に、北部仏印進駐です。1940年、日本軍は援蒋ルート遮断と南進を目的に、フランス領インドシナ(仏印)北部のハノイに進出します。
当時中国は、日中戦争においてアメリカ・イギリスから物資の援助を受けていました。(=援蒋ルート)そこで、援蒋ルートを断ち切り、停滞した戦局の打開を狙おうとしたわけです。
また、日米通商航海条約の失効に伴い、日本は物資を自分たちで確保する必要がありました。そのため、南進をして東南アジアの石油を手に入れようとしたのです。しかし、北部仏印進駐の結果、かえってアメリカ・イギリスを敵に回すことになりました。
続いて、日独伊三国同盟の締結です。北部仏印進駐と同じ年に行われました。日独伊三国同盟は、アメリカを仮想敵国とする軍事同盟です。第三国からの攻撃に対して互いに援助しあうことが約束されました。
最後は、日ソ中立条約の締結です。1941年に行われました。
南進政策を実現するためには、北方での平和はなんとしても確保したいという思惑があり、条約を締結したというわけです。
またこのほかにソ連を通じてアメリカとの関係改善を図りたいという狙いもありました。しかしこのためには、対米強硬派の松岡外相を辞めさせる必要があったことから、いったん解散し、第三次近衛内閣が発足します。
日ソ中立条約が締結された同じ年、南部仏印進駐が実行されました。これに対して、アメリカなどは反発し、ABCD包囲陣による対日経済封鎖を行います。
日米交渉の期限が10月に迫るなか、交渉の妥結を図る近衛首相と開戦を主張する東条英機陸相が対立し、近衛内閣は総辞職しました。
太平洋戦争
(太平洋戦争:wikiより)
近衛に代わって首相の座に就いたのは、東条英機です。
ここでアメリカは、ハル=ノートにより、日本に対して中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認などを要求します。いわゆる最後通告です。
結局日米交渉は決裂し、御前会議で戦争することが決定されました。1941年12月8日、日本が真珠湾を奇襲攻撃したことから、いよいよ太平洋戦争が始まります。
日本は「大東亜共栄圏」の建設という名目のもと、イギリス領マレー半島・シンガポール・香港・ビルマ(ミャンマー)・オランダ領東インド(インドネシア)・アメリカ領フィリピンなど、次々と地域を制圧していきました。
当初日本は、戦局を有利に進めていたものの、1942年のミッドウェー海戦での大敗により、主力空母4隻を失ってから形勢が変わり、窮地に立たされます。1944年にはサイパン島が陥落し、その責任を負う形で東条内閣は総辞職しました。
終戦
(ポツダム会談:wikiより)
東条が首相を務めていた1943年に、アメリカ・イギリス・中国の首脳がエジプト・カイロで会談し、今後の対日方針を定めたカイロ宣言を発表します。連合国(米・英・中)が日本の無条件降伏まで徹底的に戦うこと・満州・台湾・澎湖諸島を中国へ返還することが定められました。
1945年の2月には、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳がクリミア半島のヤルタで会談が行われ(ヤルタ会談)、千島・南樺太をロシアへ譲渡すること・ソ連の対日参戦が決定されます。
この頃日本は、東京大空襲・沖縄戦で敗北必至の状況にまで追い込まれていました。当時の首相小磯国昭は、鈴木貫太郎に内閣を譲ります。
1945年7月には、アメリカ・イギリス・中国の名で、ポツダム宣言が発表されました。日本に対する無条件降伏勧告と、戦後の対日政策が主な内容です。
日本政府がポツダム宣言を「黙殺する」と評したことを拒絶と解釈したアメリカは、1945年8月に広島・長崎へ相次いで原爆を投下しました。そこで日本はようやくポツダム宣言を受諾して終戦を迎えます。鈴木内閣は終戦後、即総辞職しました。
最後に入試問題を用意しているので、ぜひチェックしてみてください。
入試問題にチャレンジ
下線部ⓓ(「戦局が次第に悪化」)に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて、古いものから年代順に正しく配列したものを、下の①~⑥のうちから一つ選べ。
Ⅰ 米・英・中3国の首相が会談し、カイロ宣言を発表した。
Ⅱ 日本海軍は、ミッドウェー海戦で航空母艦4隻を失う大敗北を喫した。
Ⅲ 広島と長崎に原子爆弾が投下され、多数の民間人が犠牲となった。
① Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ ② Ⅰ-Ⅲ-Ⅱ ③ Ⅱ-Ⅰ-Ⅲ
④ Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ ⑤ Ⅲ-Ⅰ-Ⅱ ⑥ Ⅲ-Ⅱ-Ⅰ
まとめ
今回は第二次世界大戦からポツダム宣言までの内容について解説しました。
この記事を読んで大まかな流れを理解していただければ幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
前回の記事「日中戦争までの流れ(満州事変・盧溝橋事件など)をわかりやすく解説【日本史第78回】」ですのでよければ読んでください。
次回の記事「戦後の政治についてわかりやすく解説(GHQ・55年体制など)【日本史第80回】」
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