文治政治について解説(入試問題付き)【日本史第49回】

今回解説するのは文治政治です。

武断政治が武力によって支配する政治手法である一方、文治政治とは儒教道徳を重視する政治のことを指します。

ここでは文治政治が始まった背景や具体的な政策についても紹介します。最後には入試問題も用意しているので、ぜひ最後までお読みいただき、文治政治についてマスターしていってください。

この記事からわかること・武断政治が武力によって幕府に従わせる手法である一方、文治政治は儒教道徳を重視する政治であった。

・文治政治を行うきっかけの一つとなったのが、1651年の慶安の変である。

・4代将軍徳川家綱は保科正之と、末期養子の禁の緩和や殉死の禁止といった政策を行った。

・5代将軍綱吉の時代に、荻原重秀が元禄小判の発行量を増やしたことで、深刻なインフレーションが起こった。

・綱吉は生類憐みの令で極端な動物愛護を行った結果、人々の不満を買った。

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文治政治とは何か?武断政治との違い

 

(徳川家綱:wikiより)

文治政治とは、儒教道徳を重視する政治のことです。

初代将軍家康から3代将軍の家光の時代までは、武力によって幕府に従わせる強硬な政治手法をとっていました。こうした政治は先ほどの文治政治とは対照的に武断政治といいます。その結果多くの大名家が取り潰され、職を失った武士が増加しました。

彼らのことを牢人といい、幕府に対して不満を持っていた彼らは家光が亡くなった1651年に反乱を企てました。兵学者の由井正雪と牢人の丸橋忠弥らが中心となって行われた慶安の変です。

結局この計画は失敗して由井正雪が自害し、丸橋忠弥は捕らえられましたが、これをきっかけに幕府は従来の武断政治を改めることとなるわけです。

家光の死後4代将軍となった徳川家綱は叔父の保科正之と一緒に、文治政治を進めていきます。

手始めとして末期養子の禁を緩和しました。末期養子とは、跡継ぎのいない大名が亡くなる直前に養子を迎えることです。

ではなぜ緩和したのでしょうか?

当初この末期養子は禁止されていたため、跡継ぎのいない大名家は取り潰されてしまい、仕えていた家来たちが失業し、牢人となっていました。

そこで50歳未満の末期養子を認めることで、跡継ぎのいない大名家がつぶれるのを防ごうとしたわけです。その結果牢人の増加を防ぐことに成功しました。

あわせて1663年には、殉死を禁止しました。

殉死とは主君の死に際して、家来も自害をして後を追うことを指します。これにより家来たちは殉死をせずに、跡継ぎの新しい主人に仕えることを義務付けました。

また将軍と大名・大名と家臣の関係において、主従関係をはっきりとさせ、下剋上を起こり得なくしました。

一方江戸で1657年に起きた明暦の大火により、5代将軍綱吉の時代には深刻な財政難に苦しめられることになります。

S先生
S先生
慶安の変が起こった後、牢人と共に取り締まりが強化されたのがかぶき者です。かぶき者とは、派手な身なりで常軌を逸した行動をした者のことを指します。

綱吉の政策

 

(徳川綱吉:wikiより)

17世紀後半、5代将軍徳川綱吉の政権が成立して、元禄時代へと入っていきます。

綱吉は儒教を重視しており、林信篤を大学頭(だいがくのかみ)に命じて湯島聖堂という学問所を作らせました。大老には堀田正俊を登用したものの暗殺されたため、柳沢吉保がかわりに力を握りました。

また明暦の大火による深刻な財政難に対処しようと取り組んだのが、勘定吟味役、のちに勘定奉行になる萩原重秀です。荻原重秀は小判に含まれる金の割合を下げ、質の低い元禄小判を増やして収入をアップさせようと試みました。

しかし貨幣価値を下げると物の価値(=物価)が相対的に上がるため、インフレーションが発生して人々の生活を圧迫することになりました。

そして綱吉が特に力を入れたのが生類憐みの令です。ところが生類全ての殺生を禁止する法令だったため、人々の不満を買うことになってしまいました。こうした中で1701年に赤穂事件が起きました。忠臣蔵としても有名な事件です。

ここまでが今回の内容です。では最後に入試問題を解いて理解度をチェックしてみてください。

入試問題にチャレンジ

17世紀の後半になると、戦国の遣風もしだいに薄れていき、幕府も儀礼にもとづき社会秩序の維持をはかるようになった。4代将軍の時代には、異様な風体で徒党を組み、秩序に収まらない【ア】に対する取り締まりを強めた。5代将軍が出した【イ】は、庶民を苦しめたが、殺生を避ける風潮が社会に浸透していくことにもなった。

問 空欄【ア】【イ】に入る語句の組合せとして正しいものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

① ア かぶき者 イ 生類憐みの令 ② ア かぶき者 イ 末期養子の禁

③ ア 無宿人 イ 生類憐みの令 ④ ア 無宿人 イ 末期養子の禁

2010年 センター試験 本試験 日本史B 第4問 問1より)

正解:① 末期養子の禁は4代目家綱が行ったので②、④は誤り。4代将軍・徳川家綱の治世は,浪人や社会秩序を乱す「かぶき者」への対策が政治課題であった。
5代将軍・徳川綱吉が1685年以降に断続的に発布した極端な動物愛護令は,生類憐みの令。綱吉は戌年生れであることから,特に犬の愛護を強制した。

まとめ

今回は文治政治とは何かというところから武断政治との違い、さらには政策までを見てきました。

家綱・綱吉二人がどのようなことに力を入れたのか、という部分を中心に理解しながら覚えていってください。

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コメント

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