こんにちは。今回は冷戦の始まりについて述べていきます。
第二次世界大戦中、連合国の首脳たちは大西洋憲章に基づく国際平和組織の設立を決めていました。しかし、大戦末期からソ連と他の連合国は対立をはじめ、冷戦がはじまります。その具体的な例としてドイツが東西に分かれました。
今回は、大戦後の国際平和機構の成立から冷戦とは何なのか、冷戦の始まりと具体例である東西ドイツの分裂についてまとめます。
・大西洋憲章によって国際連合創設が決められた
・トルーマンはトルーマン=ドクトリンを発表し、ソ連の封じ込めを図った
・封じ目政策の核はマーシャル=プランとNATOの結成
・チャーチルは「鉄のカーテン」演説でソ連を批判
・ソ連は東欧諸国を衛星国化し、ワルシャワ条約機構を結成
・東西両陣営が対立する冷戦は1945年のヤルタ会談から1989年のマルタ会談まで続いた
・西側諸国の西ドイツ通貨改革に対抗して、ソ連はベルリンを封鎖したが失敗
・1961年に東ドイツがベルリンの壁を建設
大戦後の国際平和組織の創設
(大西洋会談:wikiより)
1941年8月、イギリスのチャーチルとアメリカのフランクリン=ローズヴェルトは大西洋会談を実施し、国際連合と戦後の平和構想について話し合いました。この時、発表されたのが大西洋憲章です。
ノルマンディー上陸作戦後の1944年8月、ダンバートン=オークス会議で国際連合憲章の草案が作成されました。
1945年10月24日、国際連合が発足します。安全保障理事会の権限強化や五大国の拒否権や武力制裁、総会の議決を多数決とすることなどが定められました。
冷戦の始まりと東西両陣営の安全保障体制
(鉄のカーテン:wikiより)
大戦末期、ヤルタ会談に出席したアメリカ大統領のフランクリン=ローズヴェルトが病のため死去します。かわって副大統領のトルーマンが大統領に昇格しました。
トルーマンはローズヴェルトがヤルタ会談でソ連のスターリンに譲歩しすぎたと考えます。ソ連を警戒するべきだと考えたのはイギリスの前首相であるチャーチルも同じでした。1946年、チャーチルは「鉄のカーテン」演説を行い、ソ連の行動を批判します。
1947年、トルーマンはトルーマン=ドクトリンを発表し、ソ連に対する封じ込め政策を実施します。トルーマンによる封じ込め政策の核となったのは、ヨーロッパに対する経済支援であるマーシャル=プランとNATO(北大西洋条約機構)の設立でした。
一方、ソ連のスターリンは社会主義圏の拡大を図りました。チェコスロヴァキでのクーデタなどを通じ、東欧諸国をソ連の衛星国とします。また、NATOに対抗してワルシャワ条約機構という軍事同盟を東欧諸国と結びました。
大戦末期の1945年から1989年のマルタ会談まで、アメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国が対立をつづけました。
この東西両陣営による対立を冷戦といいます。
ベルリン封鎖からベルリンの壁建設
(ベルリンの壁:wikiより)
第二次世界大戦後、ドイツはイギリス・アメリカ・フランス・ソ連によって分割占領されていました。1948年6月、西側諸国の占領地域で通貨改革が行われるとソ連が猛反発。ソ連占領地域で孤立していた西側占領地域の西ベルリンを封鎖しました(ベルリン封鎖)。
西側諸国は西ベルリンに物資を供給するため、大空輸作戦を決行しました。そのため、ソ連による封鎖は失敗に終わります。
1949年、イギリス・アメリカ・フランスの占領地にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立します。同年、ソ連占領地にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立しました。これにより、ベルリンも東西に分断された状態が続きます。
1961年、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線に壁(ベルリンの壁)を建設します。目的は、東ドイツ市民が西ベルリンを通じた西側に亡命することを防ぐことでした。
まとめ
第二次世界大戦中から、連合国は戦後秩序を意識した外交交渉を行っていました。その中で国際連合が生まれます。しかし、大戦末期から米ソ関係が悪化したことにより、ヤルタ会談以後、東西冷戦がはじまってしまいます。
米ソは互いに自分たちを盟主とする軍事同盟を結成して対立しました。1945年から1950年にかけて、東西の対立がもっとも激化したのはヨーロッパです。
特に、分割占領していたドイツの扱いについて米ソの対立が深まります。その結果、ドイツは西ドイツと東ドイツの二つに分断された国家として再独立することになりました。
東西ドイツの経済格差は次第に大きくなり、西側への人口流出を食い止めたい東ドイツ政府はベルリンの壁を建設しました。
現代史について勉強したい人は「もういちど読む山川世界現代史」がおすすめです。
コメント