こんにちは。今回は清が滅亡して中華民国までの過程についてお話をします。
今回の範囲で受験で大事なキーワードは義和団事件、辛亥革命、21か条の要求です。義和団事件や辛亥革命とは何か、わかりやすく内容を説明し、年号を覚えるために語呂合わせまで用意しました。
前回の「清の衰退〜南京条約から太平天国の乱と洋務運動まで〜」はこちら
今回の記事のポイント・義和団事件とは何か、条約の年号を含めわかる。
・孫文が主導した辛亥革命がわかりやすく理解できる。
・二十一か条の要求の内容がわかる
義和団事件とは
(義和団の兵士:wikiより)
義和団事件とは、列強諸国が中国に進出したことに対する中国民衆の外国排除運動のことをさします。
では、なぜ義和団事件が起こったのか、背景について述べていきます。
義和団事件のおこり
前回、「清の衰退〜南京条約から太平天国の乱と洋務運動まで」で日本は清と戦争を行い、日本が勝利しました。
そして、1895年、清朝は日清戦争に敗北し下関条約を締結します。これにより日本は多額の賠償金と澎湖諸島、台湾、遼東半島を得ました。ちなみに賠償金で八幡製鉄所を作りました。
のち、ドイツ・ロシア・フランスの3国が遼東半島の清国返還を勧告したため、日本は遼東半島を返還しました。これが三国干渉です。
清朝が日本に敗北したのを見た欧米列強は清国各地を租借します。租借地では、鉄道利権や鉱山開発権を獲得しました。各国による租借地は下の地図を参考にしてくださいね。
欧米列強諸国の勢力圏広すぎです。列強は中国でやりたい放題してますね。
これに対し、中国人の中でも義和団とよばれる人々が憤慨しました。義和団は清朝を助け外国を追い出そうという「扶清滅洋」をスローガンに掲げました。特に反キリスト教という
義和団の動きを知った最高権力者の西太后は義和団を支持します。列強に対して宣戦布告してしまいます。列強は日本・ロシアを主力とする8カ国連合軍を結成し義和団を打ち破りました。
結果、義和団とともに敗北した清朝は北京議定書を結ばされました。北京議定書では列強が北京に駐兵する権利を承認します。各国に多額の賠償金を支払うことが定められます。
義和団事件の年号と語呂合わせ
義和団事件についての年号自体は聞かれることは少ないですが、他の出来事との古い順に並び替えたりさせる問題で出題されることが多いので年号は知っておきましょう
義和団事件の年号はずばり、1900年です。義和団事件の語呂合わせとして、義和団事件で行くぜ(1900)で覚えてみましょう
義和団事件語呂合わせ
いくぜ(1900)義和団事件
辛亥革命とは
(辛亥革命軍の兵士:wikiより)
辛亥革命とは、1911年の干支である辛亥に由来する、清末で発生した共和革命です。孫文の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽を武力制圧し清を滅亡させることになる革命です。
辛亥革命の過程は意外と聞かれるのでわかりやすく背景を説明していきます。きちんと理解していってください。
辛亥革命の背景
列強が次々と中国各地の利権を手中に収める中、腐敗しきった清朝は事態に対応する能力を失っていました。これに危機感を抱いたのが華僑や留学生たちでした。彼らは革命運動を進めます。
1894年、ハワイで革命家の一人の孫文が興中会を結成します。(彼が日本に留学中に住んだ近辺に中山さんという方がおられ、そこから孫中山と名乗ります。中国では孫文という名前ではなく孫中山の方が有名です。)
その後、いくつかの革命結社がつくられました。1905年、孫文は東京で中国同盟会を結成します。孫文は民族の独立、民権の伸長、民生の安定という三民主義を掲げ、革命の目標とします。
革命運動に共鳴した民族資本家や華僑たちは、欧米列強に奪われた利権を取り戻そうと利権回復運動を起こします。
1911年、清朝が幹線鉄道を国有化したことをきっかけとし、四川暴動が起きました。反乱は瞬く間に拡大。武昌に駐屯していた西洋式軍隊である新軍が武装蜂起します。辛亥革命が始まりました。
以下の表が辛亥革命の流れの図です。しっかりと頭に入れておきましょう。
(辛亥革命地図)
辛亥革命の年号の語呂合わせ
辛亥革命は、干支の辛亥から由来しています。1911年というのは確実に覚えましょう。
ちなみに、辛亥革命は孫文が主導している形ですが、もともとの武昌での反乱は孫文が知らないところで起こり、反乱が成功したことで孫文は急遽帰国したという経緯があります。
反乱のいくのがいい(1911)時期だと武昌で反乱を起こしたものの、孫文は心外(辛亥)だった
辛亥革命後の状況
1912年1月1日、孫文は中華民国の建国を宣言します。自らは臨時大総統となりました。革命軍は一気に勢力を拡大。北京に迫りました。
この時、清朝の最高実力者となっていたのは袁世凱です。袁世凱は宣統帝(後の溥儀)を退位させ清を滅ぼすことと引き換えに、臨時大総統の地位を要求。孫文は袁世凱の要求を受け入れました。これにより、宣統帝は退位します。袁世凱は臨時大総統となりました。
臨時大総統の座を袁世凱に譲った孫文は、袁世凱が独裁傾向を強めると対抗するため国民党を結成し選挙で勝利します。孫文の勢力拡大を恐れた袁世凱は議会を解散します。反対派を武力で排除しました。
袁世凱に排除された孫文は日本に亡命します。中華革命党を結成して革命運動を継続します。
二十一カ条の要求と五・四運動
(五・四運動:wikiより)
21箇条の要求とは第一次世界大戦中に日本が中華民国政府に対して行った日本の権益問題などについての21か条の要求のことを指します。
1914年、サライェヴォ事件をきっかけに第一次世界大戦がはじまりました。日本は日英同盟を理由として連合国として参戦。敵国となったドイツの植民地や権益を奪い取ろうとしました。第一次世界大戦については、こちらの記事を参考にして下さい。
日本はドイツが利権を持っていた南洋諸島や山東半島の青島などを占領します。その上で、日本政府は中華民国の袁世凱に21カ条の要求を突きつけます。
21箇条の要求の要求の内容は、山東省でドイツが持っていた権益を日本が継承することを認めよという内容でした。武力で日本に対抗できないと判断した袁世凱は21カ条の要求を受諾します。
1916年に袁世凱が死去すると中華民国は各地に軍閥が割拠する群雄割拠の時代を迎えます。
1919年、第一次世界大戦が終わり、パリで講和会議が開催されました。中華民国は大戦中に日本に要求された21カ条の要求の撤回などを求めます。しかし、列強は中国の訴えに耳を貸そうとしませんでした。
怒った北京大学の学生たちがデモをおこないます。これが五・四運動です。五・四運動では反日、反帝国主義、反封建主義が掲げられます。(尚、韓国では三一独立運動が展開されます)
義和団事件から中華民国成立までのまとめ
日清戦争の敗北で清朝の弱体ぶりがあらわになったことで、欧米列強は争って中国を分割、植民地化していきました。
この状況に危機感を持った人々は孫文の指導の下、辛亥革命を起こします。1911年に清朝最後の皇帝である宣統帝が退位したことで清朝は滅亡しました。
かわって最高権力者となった袁世凱は孫文らを武力で排除。独裁政治を行おうとしました。
第一次世界大戦が起きると、日本は山東省のドイツ利権を奪い取り、中国に対し二十一カ条の要求をつきつけます。大戦終了後、21カ条の要求の撤廃を求めました、列強は無視。怒った学生たちが五・四運動を起こしました。
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