こんにちは。今回は第二次世界大戦後の中国について述べていきます。
日本がポツダム宣言を受諾したのち、中国では国共内戦が再開し、勝利したのは毛沢東の中国共産党でした。中華人民共和国の指導者となった毛沢東は大躍進政策を実施しますが失敗。劉少奇や鄧小平が経済を立て直します。
しかし、毛沢東は復権を紅青夫人ら四人組が中心となり文化大革命を起こして劉少奇らを失脚させました。毛沢東の死後、四人組は失脚し鄧小平が復活し、改革開放政策を行い中国経済を飛躍的に発展させました。
今回は、第二次大戦後、中国共産党が中国を支配していく過程を述べていきます。また、最後には全てを踏まえて毛沢東の評価もしてみたいと思います。今回で中国史は最終回となります。しっかりと理解していきましょう。
前回の記事「孫文と第一次国共合作及び蒋介石と第二次国共合作」はこちら
今回の記事のポイント・国共内戦に勝利した毛沢東は中華人民共和国を建国。蒋介石は台湾で中華民国を存続
・スターリンの死後、中ソ対立が激化。中ソ国境紛争も発生
・大躍進政策後、毛沢東は国家主席を劉少奇に譲り、劉少奇が経済を回復
・四人組は紅衛兵を操り劉少奇らを失脚させ、プロレタリア文化大革命を起こした
・毛沢東の死後、四人組は失脚。鄧小平が改革開放政策を実行した
社会主義国家の建設
(中華人民共和国建国:wikiより)
1945年、日本がポツダム宣言を受諾。日中戦争も中国の勝利に終わりました。日本が引き上げた後、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党は内戦を再開します。第二次国共内戦の始まりです。
そして、1949年、4年にわたった戦いは毛沢東の勝利に終わります。毛沢東は1949年に中華人民共和国の建国を宣言します。毛沢東が国家首席に、周恩来が首相になります。敗れた蒋介石は台湾で中華民国の存続をはかりました。
1950年、朝鮮戦争が勃発すると中国はソ連とともに北朝鮮を支援します。戦局が北朝鮮に不利に傾くと、中国人民義勇軍を朝鮮半島に派遣します。中国軍の介入で形勢は逆転します。結局、両軍は北緯38度線で膠着状態となり1953年に停戦しました。
このころ、中国はソ連と中ソ友好同盟相互援助条約(中ソ同盟)を締結し東側の一員として行動します。その一方、平和五原則の発表にもかかわるなど、第三世界の一員としての顔もありました。
1958年、毛沢東は経済力の向上を図るため大躍進政策を実行します。大躍進政策とは1961年まで続く、中華人民共和国が施行した農業と工業の大増産政策を指します。
ところが、大躍進政策は3年でイギリスの生産高を超えるような計画など現実を無視した政策で質の悪い製品が増え、国内が大混乱に陥りました。
無理な計画を立てても意味はありません。勉強においてでもですね!
結果、大躍進は大失敗に終わりました。そのため、毛沢東は国家主席の座を退き党主席として国政に関わるようになります。
劉少奇の経済改革と文化大革命
(紅衛兵:wikiより)
毛沢東にかわって国家主席の座に就いたのは劉少奇でした。劉少奇は行き過ぎた社会主義化を改め、資本主義的な要素を経済に組み込むことで中国経済を回復させます。
1960年代は中ソ関係が悪化した時代でした。スターリンが死去し、あとを継いだフルシチョフはスターリン路線を修正します。欧米との平和共存にかじを切ったからです。その結果、中ソ国境紛争が激化しました。
1969年の珍宝島(ダマンスキー島)事件や新疆ウイグル自治区とソ連との国境線での紛争など武力衝突がたびたび発生しました。
ソ連との対立が強まった中国は西側諸国との関係改善に応じるようになります。1972年にはアメリカのニクソン大統領が電撃的に中国を訪問しました。同年に日本の田中角栄が中国と日中共同声明を発表するなど関係改善が進みました。
また、1959年のチベット併合に際し、ダライ=ラマがインドに亡命しました。中国とインドは対立関係に入ります。そのため、中印国境紛争も勃発しました。
1966年、毛沢東夫人の紅青らが扇動した紅衛兵が毛沢東語録を掲げて各地で「反革命分子」を摘発します。資本主義に傾いた幹部は「実権派」として弾劾されました。この運動のことをプロレタリア文化大革命(通称、文革)といいます。
文化大革命とは、簡単にいうと既存の価値を全て否定するという運動でした。教師や大人たちを弾劾しリンチすることを許された紅衛兵という若者たちが台頭し、彼らに反対する勢力は私的制裁を課され多くの有識者が殺されていきました。
正直、文革についてはあまりにもえげつない内容すぎるのでこれ以上解説はできません。この時代を描いている小説「ワイルド・スワン」がおすすめです。中国では一時発行禁止のため中国では手に入らないといういわくつきの私小説です。ぜひともこの時代の空気を感じてみてください。
そして、文化大革命の進展により劉少奇や鄧小平といった実務派の党幹部が失脚します。かわって、紅青ら四人組が政治の主導権を握りました。文化大革命は毛沢東の死まで続きます。
四つの現代化と改革開放政策
(鄧小平:wikiより)
1976年、毛沢東が死去します。これまで、毛沢東の権威を利用して権力を保持してきた四人組は失脚。中国農業・工業・国防・科学技術の現代化を図る「四つの現代化」を掲げます。その中心人物となったのが鄧小平でした。
鄧小平は最高実力者として党や軍を掌握すると、改革開放政策を打ち出しました。改革開放政策とは、市場原理や外国資本の積極的な導入により中国経済を回復させ、飛躍させようという試みです。鄧小平の目論見は成功し、中国経済は急成長を遂げました。
その一方、政治的権利については抑圧したままでした。1989年、改革派だった胡耀邦総書記の追悼集会に端を発した学生・市民の運動は中国人民解放軍によって弾圧されます。これが天安門事件です。ちなみに当時の総書記趙紫陽は天安門事件の責任をとり失脚し死ぬまで軟禁生活を送ることになりました。
それ以後も、中国は経済発展を継続します。1997年には香港、1998年にマカオが中国に返還されかつて失った租借地を全て取り戻すこともできました。
【結論】毛沢東の評価と鄧小平の経済改革
国共内戦に勝利した毛沢東は社会主義国家の建設を目指しました。しかし、大躍進政策の失敗から国家主席の座を劉少奇に譲り、党務に専念します。しかし、文化大革命では毛沢東夫人である紅青ら四人組が権力を掌握し、劉少奇や鄧小平を失脚させました。
最初、北京大学の司書に過ぎなかった毛沢東は、一国を動かすことになりました。彼が共産党に入党したのは同じ大学の陳独秀が共産党を作ったという縁でした。陳が大学教授であるのに対し司書に過ぎない彼は知識というものに相当ルサンチマンを抱えていたと思われます。文革を実行した背景にもそういうものがあったのではと個人的に思います。
毛沢東の評価として、中華人民共和国建国のリーダーですし非常にポジティブの評価が高いです。戦いの点で非常に優れていた戦略家だったといえます。しかし、建国後は経済問題という部分で失敗し、文革で晩節を汚します。これは、彼の理想主義が経済という現実問題を対応できなかった形でしょう。
毛沢東という人となりを知るためには「毛沢東語録 (平凡社ライブラリー)」がおすすめです。日本語訳で読むといいでしょう。ちなみに、中国の大学ではこの毛沢東語録が試験科目としてあります。。。
毛沢東の死後、四人組は権力を失い鄧小平が復権します。鄧小平は市場経済や外国資本の積極的な取り込みにより中国経済を飛躍的に成長させました。
しかし、政治的な抑圧は続いていたため、これに反発する人々が天安門事件を起こします。鄧小平は天安門に集まった学生や市民たちを武力で弾圧しました。
以上で中国史の話は終了です。お疲れさまでした。しっかりと復習をしておきましょう。
前回の記事「孫文と第一次国共合作及び蒋介石と第二次国共合作」はこちら
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