みなさん、世界史を勉強してナポレオン戦争後のウィーン体制の時期ってかなり混乱しませんか?
世界史の教科書は基本的には秀逸なものと思うのですが、私自身受験生だった時、ウィーン体制後から第一次世界大戦までの範囲はかなりわかりづらく混乱をしていました。
しかも、この時期の動向は入試問題に出題されやすく、勉強するのが困難でした。
そこで、今回は、ウィーン体制後の欧米諸国の動向をわかりやすくまとめてみます。具体的にはフランス、イギリス、ドイツ、イタリア、ロシア、アメリカの動向をまとめます。
各国の詳しい動向や内容についてはHIMOKURIの記述に譲ります。あくまで、今回は、ウィーン体制後のヨーロッパ、アメリカの動向を大まかに理解するものとなっています。
まずは、当時のヨーロッパの状況について簡単に位置関係を覚えておきましょう。
ウィーン体制後から第一次世界大戦までのヨーロッパ、アメリカの流れは以下の表にまとめました。この表は頭に入れると良いでしょう。(ノートに書き出すことを強くオススメします!)
それでは、早速、解説を始めていきます。この時期、まず軸となる国は、フランスです。フランスの流れが各国に影響を与えていきます。まずは、ナポレオン戦争後のフランスの流れを追いかけてみましょう!
フランス
(民衆を率いる自由の女神:wikiより)
1814年〜15年にかけて、フランスのナポレオン戦争の処理としてウィーン会議が開かれました。ここで決まったのは、ナポレオン以前の状態に戻す(正統主義といいます)、ということでした。ウィーン会議については「【世界史B】受験に役立つヨーロッパの歴史(ウィーン体制とその崩壊)【近現代編その1】」を読むと良いでしょう。
また、このフランスの流れは詳しくは「19世紀のフランス(7月革命とナポレオン3世そしてパリ・コミューンの第三共和制)【世界史B】」でかなり詳しくフランスに焦点をあてて記載しているので併せて読んでください。
ブルボン朝の復古王政
まず、フランスではナポレオン以前のブルボン王朝が復活しました。
そこで、ルイ18世がトップに立ちますがフランス革命の影響があってかフランス革命に逆行する行動をとり人々から嫌われます。しかも、ルイ18世の軍隊がエルバ島に流刑されていたナポレオンの味方についてしまい、結果、失脚しフランスを追われることになります。
次に、フランス革命で斬首されたルイ16世の弟であるシャルル10世がトップに立ちます。しかし、議会の解散やルイ14世時代の絶対王政復活を目指すなど、反動的な専制政治を行なったため1830年、不満をもったフランス国民により7月革命が起こされました。
ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』がその様子を描いています。
7月王政
そこで、オルレアン公ルイ=フィリップが1830年の七月革命で国王になります。
彼は責任内閣制を導入し、ギヨームやギゾーらを首相に登用し、経済の奨励を行い、フランスに産業革命をもたらしました。ブルジョワジーなど資本家には受けが良かったのですが、労働者を始めとする一般大衆には反感を買い、1848年に2月革命を起こされ、失脚・亡命します。
第二共和制
2月革命の後、第二共和政が発足します。ブルジョワと社会主義者の協調が図られましたが、対立が激化しました。
不安定な政権ということもあり、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が現れ、彼が皇帝に即位したことで幕を閉じます。
第二帝政
ナポレオン3世が皇帝として君臨し、第二帝政が始まります。彼は、自由貿易をすすめ、フランスでの産業革命を完成させます。
しかし、アメリカの南北戦争に乗じラテンアメリカに足場を築くためにメキシコ出兵をしますが、メキシコ民衆の激しい抵抗を受け、またアメリカの反発もあって撤退を余儀なくされます。
さらにプロイセン宰相ビスマルクの策略であるエムス電報事件により普仏戦争を行います。
結果、ドイツ(プロイセン)と戦争に敗北し、1870年退位します。ここで、第二帝政が終わります。
第三共和制
第二帝政に代わる政体で、1870年から始まります。
対外的には帝国主義に傾斜していき、第一次世界大戦でドイツと戦い、戦後のヴェルサイユ体制で優位に立ちます。第二次世界大戦でナチスドイツに占領されるまでの約70年間の政権でした。
イギリス
(19世紀の鉱夫:wikiより)
イギリスでは、産業革命が絶頂期にあります。この時期について詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イギリスの自由主義改革)【近現代編その2】」を読んでください。
この時期で大事なキーワードは自由主義です。マンチェスターにある綿織物を中心に産業革命が進んで行きました。(古くからある毛織物産業はむしろ機械化に抵抗していたことは注意!)
そして、こうして大量生産された物は海外へと売りに出されます。貿易を強化するには植民地化するのが一番です。そこで、帝国主義が始まります。帝国主義はイギリスが最初に行いました。
ドイツ
(ビスマルク:wikiより)
ウィーン会議において合意され、ナポレオンが樹立したライン同盟に代わって1815年5月にドイツ連邦が樹立します。
ドイツ連邦時代
当時のドイツの流れについては「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イタリア・ドイツの統一)【近現代編その5】」を参考にしてください。
そして、1834年、プロイセン王国を中心とするドイツ関税同盟が発足します。これは、1831年アメリカから帰国した経済学者フリードリヒ=リストの思想的影響をうけて発足します。
このドイツ関税同盟にはオーストリアを除くほとんどのドイツ国内の国が加盟し、国内統一のためにプロイセンとオーストリアが対立していきます。
1848年、フランスでの二月革命の潮流が全ヨーロッパに拡大します。
結果、オーストリアでウィーン三月革命、プロイセンでベルリン三月革命が起こり、自由主義とナショナリズムが高まりました。ウィーン体制を支えたメッテルニヒが亡命に追い込まれウィーン体制が崩壊します。
そして、憲法制定を通じた自由主義的なドイツ統一を図るフランクフルト国民議会が成立します。しかし、オーストリアからもプロイセン王国からも支持が得られず崩壊します。
当時、ドイツではオーストリアを中心とする大ドイツ主義とオーストリアを排除してプロイセンを中心とする少ドイツ主義が対立していました。そこで、1866年に普墺戦争が起こり、プロイセン側が勝利します。
結果、オーストリアをはじき出すプロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立し、ドイツが統一されます。
北ドイツ連邦
プロイセンが盟主となり、ドイツが統一されました。北ドイツ連邦の盟主はヴィルヘルム1世で宰相にビスマルクがつきます。
ビスマルクはエムス電報事件を起こして、普仏戦争を起こしフランスに勝利します。そして、ナポレオン3世を捕虜にして、ヴィルヘルム1世がベルサイユ宮殿で帝国の戴冠式を行います。
ドイツ帝国
ヴィルヘルム1世は、ドイツ帝国の皇帝になります。そして、ドイツはヴィルヘルム2世の下、第一次世界大戦へ進んできます。
イタリア
(逮捕されたカルボナリ:wikiより)
イタリアの流れについても「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(イタリア・ドイツの統一)【近現代編その5】」を参考にしてください。
イタリアはオーストリアの支配に反発して1820年からカルボナリ(炭焼党)が反乱を起こします。このカルボナリは入団するのに加盟儀式があり、秘密結社的要素が強く運動は広がりませんでした。
そして、7月革命の影響を受けたマッツィーニは青年イタリアという政党を立ち上げ反乱を起こします。
2月革命の革命の波はイタリアにも及び、共和主義的な青年イタリアが力を持ちます。ただし、内部分裂が激化し潰れていきます。マッツィーニは後にローマ教皇領にローマ共和国を樹立しますが、ナポレオン3世に滅ぼされてしまいます。
一方、イタリアでの最大領土を持つサルデーニャ王国が、首相のカヴールを中心にイタリア国内の領土を次々に獲得していき1861年にイタリア王国になります。
ちなみに、南チロルとトリエステは「未回収のイタリア」として第一次世界大戦終了まで併合はできませんでした。
ロシア
(セヴァストーポリのロシア艦隊:wikiより)
ロシアについては「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(19世紀のロシアと南下政策)【近現代編その4】」を参考にしてください。
ロシアは不凍港を獲得するために黒海からエーゲに向かって領土を拡大していきます。これを東方問題といいます。
(世界の歴史マップを一部加筆)
ウィーン体制後のロシアはオスマン・トルコとの関係で見ておけばいいでしょう。
まず、フランス革命・ナポレオンに刺激を受けてギリシアはオスマン・トルコから独立するために1821年ギリシア独立戦争を起こします。これにロシアはギリシアを援助し、ギリシアは独立しましたが、ロシアが南下政策で利益を得ることはありませんでした。
次に、エジプト・トルコ戦争です。これは、1831年エジプト総督ムハンマド=アリーがシリアに進出し、エジプトがオスマン・トルコとぶつかります。ロシアは、オスマン帝国から黒海とダーダネルス=ボスフォラス海峡のロシア艦隊の航行権を認め、らロシアを支援します。しかし、イギリス・フランスが戦争に介入し、結果、航行権は認められず南下政策は失敗します。
そこで、ロシアはオスマン・トルコと1853年から戦います。これが、クリミア戦争です。オスマン・トルコ側にイギリスやフランス、サルデーニャ王国がつき、大規模な戦争になり事実上の戦勝国はないまま、ロシアの南下政策は失敗します。
次に、1877年にバルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人支配に対し反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入しロシア=トルコ戦争が起こりました。ロシア側の勝利で終わったもののベルリン会議でロシアの獲得した領土はオスマン・トルコに返還することが決まりました。
以上、ロシア不凍港獲得のために南下政策を行っていきますが、結果失敗に終わります。
アメリカ
(ゲティスバーグの戦い:wikiより)
最後は、アメリカです。
アメリカはウィーン体制の影響は直接受けていませんが、この時代どのような流れなのか知っておきましょう。詳しくは「【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(アメリカ南北戦争)【近現代編その6】」を見てください。
1812年、アメリカはイギリスがアメリカとヨーロッパの貿易を妨げているとしてイギリスに宣戦布告します。米英戦争が始まりました。結果、両者は疲弊し1814年ベルギーにてガン条約が結ばれ講和、終結しました。
そして、1825年アメリカは、アメリカ合衆国がヨーロッパ諸国に対して干渉しないことを提唱するモンロー主義を採択し、ヨーロッパとは関係を持たないことが基本理念となります。
そして、1846年アメリカはテキサスの所属をめぐってメキシコとの衝突し、アメリカ=メキシコ戦争が起きます。
結果、アメリカはカリフォルニア,ニューメキシコなどを獲得し、領土は太平洋側までに及びます。こうした、東部から西側まで領土を拡大していく流れを西漸(せいぜん)運動といいます。1848年、カリフォルニアに金鉱が発見られてゴールドラッシュが起こり、西部開発が進みます。そして、フロンティア(辺境地域)が失われインディアンが追いやられていきました。(白人側は明白な天命といいます)
1861年、アメリカでは南北戦争が起こります。結果、北部が勝利します。北部は共和党が支持母体です。黒人奴隷に反対していましたね。
その後、1861年以降アメリカはカリブ海政策をとり、国外に向けて活動を広げていきます。また、1890年頃にはフロンティアは消滅していき、国内が統一されます。
まとめ
以上、ナポレオン戦争のウィーン体制後の欧米の流れについて簡単にまとめました。なかなか教科書だけでは理解しづらいので、国別に理解していきましょう。
もう一度、上記図を載せておきます。
本記事作成において「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた」を参考にしました。まだ読んだことがない人はおすすめです。
お疲れさまでした。
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